ノート:坂口安吾
メモ[編集]
本籍(父の生地)はどうでもいいですよね。とりあえず消しました。--Sugitaro 2007年1月6日 (土) 08:47 (UTC)
作品の表記の鍵括弧について[編集]
同じ作品であるにもかかわらず、長編だと﹃﹄で、中編だと﹁﹂になっていたり、同じように雑誌掲載のことに記述しているのに、ある段落では、﹃﹄になっていたりと、変だったので、著作はいったん全部、﹃﹄にしました。また細かくのちほど見直しますが、表記ガイドを見ても、短編だから﹁﹂にしなければいけないなどとは別に書かれていません。全集などに収録されている時、個々を併記する場合は、それぞれの著作を﹁﹂にしなければいけませんが、それ以外の文章内では、作品名は長編でも短編でも同じ扱いにしなければ、とてもおかしいです。例えば、坂口安吾の代表作を併記するときに、あるものは﹃﹄、あるものは﹁﹂となっているのは、とてもおかしいことです。すこし短い中編だからといって、﹁﹂になるなどとは変なことです。長編と短編・中編は、楽曲のアルバムとシングルの関係ではないので。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 02:37 (UTC)
付記
表記ガイドの説明を読んでも、︵例‥夏目漱石﹁坊っちゃん﹂︵春陽堂刊﹃鶉籠﹄収録︶︶のように、長編小説でも、何か全集や短編集、作品集などに収録されている時のことを記述する場合には、個々の作品名は﹁﹂で表記しなければいけませんが、これは長編、中編、短編にかかわらず、何かに収録、内包されている場合の説明時はそうなります。
それから、﹁本﹂じゃないから﹃﹄にはならないとか、必ずしもそういう表記ガイドの説明にもなってません。上演されていても単読本になっていない﹁戯曲﹂もありますし、長編物でも単行本になってない文学作品もあります。長編﹃坊ちゃん﹄はもちろん単行本になってますが、中編小説や短編小説でも、単独で本になっている作品は沢山ありますし、発表された一個の独立した著作物です。﹁表記ガイド﹂における、その作品が短さというのは、何かに収録されている時の比較において、﹁比較的短小な﹂というふうに比べている説明であって、通常は、短編映画や短編小説だろうが独立の著作物です。短編小説や短編映画を﹁﹂で表記しなければいけないなどと、どこにも説明されてはいません。
文学作品では、通常単独でその作品のことを主体的に語る場合や、記載する場合は、長編小説だろうが、中編小説だろうが短編小説だろうが、﹃坊ちゃん﹄のように﹃﹄にしないと、統一がとれません。例えば、その作家の代表作を文章内で併記する時に、短編や中編だからといって、それだけを﹁﹂に表記するなんて、とても変なことです。各々の文学作品は、楽曲のアルバム名やシングルの関係性ではありません。だから、小説の長さを基準にして、﹁﹂と﹃﹄を区別するという発想や考え方自体が何かズレていて変です。各々の文学作品は同格ですので、中編になったとたんに﹁﹂と表記しなくてはいけないなどというのはナンセンスです。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 04:04 (UTC)
再修正について[編集]
やはり、本文である﹁生涯﹂や﹁作品﹂の項目内では、著作物は﹃﹄で統一表記しておかないと、記述内に出てくる、﹁カストリを飲む会﹂﹁堕ちきること﹂﹁推理を楽しむ小説﹂﹁パズルを解くゲーム﹂などの文言と、著作物との区別が紛らわしくなり、坂口安吾の著作への前知識のない人にとって非常に読みづらく、分かりにくい全体記事になってましたので、﹁生涯﹂﹁作品﹂の項目内での著作物は﹃﹄で統一させていただきます。記事の目的は、何の予備知識のない人にも、より明確で分かりやすい説明記事にすることが第一です。著作物と、上記のような文言が同じ﹁﹂だと、初心者には、何が作品名なのか、どれが概念説明の文言や会の名称なのかの区別が一目で分かりにくく、混同されやすくなりますので、著作物は﹃﹄にしておきます。元に戻すと、雑誌掲載でも長編だけ﹃﹄になっていたり、雑誌掲載でもないのに﹁﹂になっていたり、書き下ろしだけ﹃﹄にしたりすると、余計にごちゃまぜで分かりにくいです。ガイドラインはあくまでも指針ですので、それだけが目的化して、記述内の内容が分かりにくくなってはなりませんので。 ただし、﹁年譜﹂の項目内においては、そういった混同や紛らわしさが回避されている箇条書きの年表項目ですので、雑誌掲載時の作品の場合は、一応﹁﹂にしておきました。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 07:38 (UTC) ﹁﹂が著作物名と紛らわしいような場合には前後に補足を入れることで簡単に混同が回避できます。今のところ特にその必要もなさそうに見えますが。他の作家の記事と同じように書かれている一般的な作家記事であり、これだけ表記ガイドをあえて無視する必然性はありません。表記ガイドに従ってください。--続続頭痛︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 08:53 (UTC) ︵以下議論用のアカウントを使用︶上のほうの書き込みに気づいてませんでした。短編と長編の鉤括弧の区別は文芸評論などでもよく見かけます。短編が単独で書籍化されたり、長編が書籍化されなかったりといったケースも確かにありますが、前者は単独で書籍化されることのほうが多い作品であるか、後者は書籍化されれれば単独の刊行が自然であるかどうかといったようなことで蓋然的に判断できるでしょう。個々人の感覚で使い分けられるとばらばらになるからガイドラインが設けてあるのですから、無視する方向で修正するのはやめてください。--新続頭痛︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 09:19 (UTC) 私は﹁表記ガイド﹂を無視していません。例えば、著書一覧では、きちんと収録作品としているものは、﹁﹂のままにしています。それから、頭痛さんが戻した版も、かなりいい加減な基準で、﹁﹂になっていたり、﹃﹄になっていたりしていますので︵長編で書下ろしでも﹁﹂になっていたり︶、ただ機械的に単純に前の版に巻き戻すのは止めてくれませんか。直すならば、きちんと一つ一つ、あなた自身が考えて直してください。それから、表記ガイドには、短編小説を﹁﹂にするなどというガイドにはなっておりません。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 10:21 (UTC)
不統一な部分は気が向いたときに私が直すということでも構いません。Wikipedia:表記ガイドには﹁比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品﹂に﹁﹂を使うとあるのですから、文字通り﹁短編小説﹂と書かれていなくとも短編はこれに含まれると考えるのが自然です。これを考慮せずに﹁表記ガイドを無視しているわけではない﹂などというのは無理があるでしょう。--新続頭痛︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 11:20 (UTC)
表記ガイドについて[編集]
それは、頭痛さんの思い込みでしょう。短編小説を﹁﹂で表記しなければいけないというガイドはどこにも明確に書かれていませんし、示されてもいません。﹁比較的短小な作品﹂というのは、作品集に収録されている場合の個別の作品や、作品内の章のことを指しているという説明です。独立して存続して一冊の単行本にもなる短編小説を、絶対に﹁﹂で表記しなければいけないとなどとはどこにも書かれていませんし、そんな説明にもなってません。
●比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品︵論文名・書中の章名・短詩の名・交響曲などの楽章名・組曲中の曲名・CDなどのシングル名・シングルやアルバム中の曲名・テレビの企画名・話名など︶は、和文では﹁ ﹂、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
上記には﹁書中の章名﹂や﹁短詩﹂とは書かれていますが、これらと、独立の書籍にもなりうる﹁短編小説﹂とは概念が違います。もちろん全集やアンソロジーなどに収録されている場合の羅列の時は、短編だろうが長編だろうが﹁﹂と表記するのは当然のことですが。
●比較的長大な作品あるいは作品群︵書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など︶は、和文では﹃ ﹄で囲み、欧文では︵入力を
''……''
として︶イタリック体にします。
には、﹁戯曲名﹂﹁映画名﹂とあり、戯曲や映画には、短編小説を原作にしているものも沢山あります。戯曲や映画ならば、短くてもすべて﹃﹄で表記されて、小説だけが長さで区分けされてしまうというのは、おかしな話です。中編だろうが短編だろうが、単独書籍になることもあり、映画や戯曲の原作にもなりますので、小説だけが長さで判断されるなど、根本的な概念が変です。
なので、頭痛さんのように﹁表記ガイド﹂の説明を短絡的に、﹁短いから、長いから﹂と判断して、短編小説は﹁﹂で表記しなければいけないというふうに勝手に決めつけて、それを押しつけるのはやめてもらえませんか。﹁表記ガイド﹂の意味している説明は頭痛さんのようなガイドになってませんので。
それから、雑誌掲載の時にも絶対に、﹁﹂にしなければいけないと決めつけられてしまうと、長編小説などの連載が雑誌に掲載されていた時の記述の場合、川端康成の﹃千羽鶴 (小説)﹄や﹃雪国 (小説)﹄は、雑誌掲載時の名称がその題名とは違う、各々の章名で掲載あるいは連載されますので、例えば、
●﹁雪国﹂は、雑誌﹃○○﹄や﹃××﹄に書き継がれて掲載された。
というふうに、雪国を﹁﹂で表記すると、とても変になります。こういうふうに、文学作品はいろいろと複雑なので、頭痛さんの考えのような機械的な判断で表記できないこともあります。作品は、初出の雑誌掲載時と﹁題名﹂や﹁長さ﹂も変ってくることも沢山ありますので︵最初は短編で書きつがれて、長編になったり、中編になったり、いろいろあります︶、あなたのように﹁表記ガイド﹂を単純に判断して、短いから﹁﹂だ、長編だから﹃﹄だ、書籍の段階でないから﹁﹂だとか押しつけないでほしいです。﹁表記ガイド﹂の指針と、頭痛さんが決めつけている機械的なルールとは全く別物です。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 12:15 (UTC)
短い映画や戯曲の扱いについてはWikipedia‐ノート:表記ガイドで確認する、それで必要となれば文面を修正するなどしたらいかがですか。他の部分は論理が飛んでいてちょっと相手にしていられません。﹁比較的短小な作品や﹂﹁作品群に含まれる単一の作品﹂と言っているのになぜ前半を無視するのでしょう。--新続頭痛︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 12:33 (UTC)
﹁比較的長大な作品あるいは作品群﹂との対比で﹁比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品﹂と言っているのだから一般的な日本語話者であれば﹁短編﹂は明らかに前者に該当せず、後者に含まれるということが自然に理解できるはずです。牽強付会はやめてください。--新続頭痛︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 12:37 (UTC)
比較的というのは、その作品と章の関係性や、全集とその収録作品との関係性、アルバムとシングルの関係性のことを指しているのは、読めば分かるでしょう。それを頭痛さんのように、短編小説は﹁﹂だ、長編小説は﹃﹄だと短絡的に解釈する方がおかしいです。ならば短編映画や、短い芝居は﹁﹂表記になるんですか。どこでそれを線引きするんですか。
それと、頭痛さんの編集直しを見ましたが、﹁書名・連載・長編は二重鉤、それ以外は一重鉤に﹂って何ですか。そんな﹁表記ガイド﹂ありませんけど。それなら、単行本になっている﹃堕落論﹄や﹃白痴﹄はなぜ、﹁﹂になっているんですか。﹃二流の人﹄は書き下ろしで書籍になったもので、ほぼ長編小説に近い長さなのに、なぜ﹁﹂なんですか。ちなみに短編でも連載小説はあります。テンプレの代表作で、﹁﹂と﹃﹄を長さで決めるような、汚い表記もやめてくれませんか。﹁表記ガイド﹂も、短編小説は﹁﹂にしろ、などという指針にはなっていませんので。--みしまるもも︵会話︶ 2014年4月9日 (水) 12:48 (UTC)