奥平朝昌
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奥平朝昌︵おくだいら ちょうしょう、雍正6年8月14日︵1728年9月17日︶ - 嘉慶10年2月12日︵1805年3月12日︶︶。本来は向氏名嘉原家十一世であるが、室の家に跡継ぎがいなかったため嗣子となり、向氏辺土名家十四世となった。唐名は向重勲、童名を樽金といい、尚真王の三男‥尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。
室‥思乙は劇聖と称される向受祐・玉城親方朝薫の孫にあたり、同家の男系子孫が絶えたために朝昌が家を継いだ。
同家では向受祐・玉城親方朝薫が歌三線をよくし湛水流を修めていたが、それは子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜をへて、朝昌に伝えられた。朝昌はそれを伊志嶺朝撫に伝えた。
系譜
実父は向正中・恩河親方朝村(なお氏集69番の「朝材」の記載は誤植)であるが、室の甥の家を継いだ。子に一男三女をもうけるが、男子がはやくに亡くなったため朝昌のあとは娘婿の向良贊・熱田親雲上朝長が継いだ。
- 実父:向正中・恩河親方朝村
- 実母:向氏思乙
- 兄(次男):向重華・花城親方朝楞
- 室の父:向廷瑚・玉城親雲上朝嘉
- 室の弟:向維新・奥平親雲上朝義
- 室の甥:向弘業・奥平里主朝栄
- 室の弟:向維新・奥平親雲上朝義
- 室:向氏思乙 (向廷瑚・玉城親雲上朝嘉の四女)
- 長女:思乙 (馬氏名護里之子親雲上良寛に嫁ぐ)
- 次女:真加戸 (麻氏諸見里里之子親雲上真賀に嫁ぐ)
- 長男:向那珍・恩河子朝盛
- 三女:真牛 (のちに同家十五世となる向良贊・熱田親雲上朝長に嫁ぐ)
- 猶子:向良贊・熱田親雲上朝長
経歴(月日は旧暦)
●1728年︵雍正6︶8月14日 生まれる。
●1740年︵乾隆5︶2月12日 カタカシラを結う︵→恩河子朝昌︶。
●1752年︵乾隆17︶12月1日 若里之子に陞る︵→恩河里之子朝昌︶。
●1755年︵乾隆20︶12月1日 黄冠に陞る︵→恩河里之子親雲上朝昌︶。
●1762年︵乾隆27︶2月11日 御物奉行方仮筆者となる。
●12月10日 実兄も同じく物奉行方にて勤務することになり、同名がいては不便であるので訴えにより安室に改名︵→安室里之子親雲上朝昌︶。
●1770年︵乾隆35︶5月11日 安室からもとの恩河に改名︵→恩河里之子親雲上朝昌︶。
●1774年︵乾隆39︶4月4日 接貢のため脇筆者として中国へ。
●1775年︵乾隆40︶5月5日 帰国。
●1781年︵乾隆46︶3月4日 進貢使節の大筆者として中国へ︵耳目官は向翼・東風平親雲上朝睦︶。
●1782年︵乾隆47︶2月24日 帰国。
●6月14日 返上物宰領として薩摩へ上国。
●1783年︵乾隆48︶2月14日 帰国。
●12月1日 御船手奉行となる。
●1786年︵乾隆51︶6月13日 高奉行となる。
●1787年︵乾隆52︶5月15日 室の甥‥向弘業・奥平里主朝栄が亡くなる︵享年19︶。
●8月10日 室の甥の家を継ぎ、豊見城間切平良地頭となる︵→奥平親雲上朝昌︶。
●1788年︵乾隆53︶7月14日 接貢のため官舎として中国へ。
●1789年︵乾隆54︶7月2日 首里へ戻る。
●1791年︵乾隆56︶12月1日 日帳主取となる。
●1792年︵乾隆57︶12月1日 泊地頭職となる。
●1793年︵乾隆58︶12月1日 紫冠に陞る︵→奥平親方朝昌︶。
●1794年︵乾隆59︶12月1日 勘定奉行となる。
●1795年︵乾隆60︶10月6日 次回の江戸上りに際し楽稽古奉行となる。勘定奉行も兼任。
●1796年︵嘉慶1︶12月1日 寺社奉行となる。
●1797年︵嘉慶2︶7月19日 江戸上りのため薩摩へ向かう。しかし途中で台風にあい、船と積荷を失う。
●1798年︵嘉慶3︶2月21日 島づたいに移動し鹿児島到着。
●1799年︵嘉慶4︶9月15日 冊封使の来琉にそなえ、踊奉行となる。
●11月16日 帰国。
●1800年︵嘉慶5︶12月1日 寺社奉行となる。
●1804年︵嘉慶9︶3月28日 中城間切熱田地頭となる。
●12月1日 勘定奉行となる。
●1805年︵嘉慶10︶2月12日 亡くなる︵享年78︶。