「宮田征典」を編集中
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2年目の{{by|1963年}}には当時としては珍しいリリーフ専門となり、46試合に救援登板して、[[交代完了]]はリーグトップの25試合を数え、6勝4敗、防御率1.88を記録。規定投球回には届かなかったが、短いイニングならプロでやっていけるという自信につながった<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />。この年の救援としてのフル回転ぶりは「[[ON砲]]に一発がない日があっても宮田が[[ブルペン]]にいないときはない」と言われるほどで、川上からも「宮田の6勝は15勝以上の価値がある」と評された<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間』35頁</ref>。当時は[[セーブ]]制度がなく先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあったが、宮田は同点試合・勝利試合に多く登板した。同年の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]との[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に登板し、第4戦で[[藤田元司]]をリリーフするが、6回には[[田中久寿男]]に決勝適時打を喫し敗戦投手となる。 |
2年目の{{by|1963年}}には当時としては珍しいリリーフ専門となり、46試合に救援登板して、[[交代完了]]はリーグトップの25試合を数え、6勝4敗、防御率1.88を記録。規定投球回には届かなかったが、短いイニングならプロでやっていけるという自信につながった<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />。この年の救援としてのフル回転ぶりは「[[ON砲]]に一発がない日があっても宮田が[[ブルペン]]にいないときはない」と言われるほどで、川上からも「宮田の6勝は15勝以上の価値がある」と評された<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間』35頁</ref>。当時は[[セーブ]]制度がなく先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあったが、宮田は同点試合・勝利試合に多く登板した。同年の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]との[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に登板し、第4戦で[[藤田元司]]をリリーフするが、6回には[[田中久寿男]]に決勝適時打を喫し敗戦投手となる。 |
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{{by|1964年}}は救援として投げる傍らで、先発陣の不調から5月に入ると先発もこなし、5月下旬までに6勝を重ね防御率も一時はリーグトップに立った<ref name="n38">﹃プロ野球・燃焼の瞬間﹄38頁</ref>。 |
{{by|1964年}}は救援として投げる傍らで、先発陣の不調から5月に入ると先発もこなし、5月下旬までに6勝を重ね防御率も一時はリーグトップに立った<ref name="n38">﹃プロ野球・燃焼の瞬間﹄38頁</ref>。ある試合の投球時に右[[肩]]を[[脱臼|亜脱臼]]し戦線離脱<ref name="n38" />。宮田曰く﹁当時は野球による肩の痛みは“野球肩”と言われて、ロクな治療をしてもらえない。ごまかしながら投げていたら完全に壊しました﹂と言い、リハビリの日々が始まった<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />。父親に脱臼を報告するとそのまま辞めて[[家業]]を継ぐように言われるが、その言葉に反発する<ref name="n39">﹃プロ野球・燃焼の瞬間﹄39頁</ref>。一度は引退も覚悟した肩痛であったが<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />、まず故障した原因を考え、それが[[肩]]回りの筋力が弱いことだと判ると、[[ダンベル|鉄アレイ]]や自作の器具で[[トレーニング]]を積んで落ちた[[筋肉]]を付け直す<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />。体の仕組みや正しい投球フォームを徹底的に追及することで投球の精度が上がり<ref name="死中を生き抜いた8時半の男" />、抜群の[[コントロール|制球力]]を得る。
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{{by|1965年}}は故障も癒えて救援として獅子奮迅の活躍で、8月半ばまでに17勝2敗、防御率1.74の好成績を挙げ<ref>﹃プロ野球・燃焼の瞬間﹄59頁</ref>、 [[1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]のファン投票では[[村山実]]や[[金田正一]]を退け1位で選出された<ref>﹁オールスター ファン投票決まる 投手は宮田︵セ︶と林︵パ﹂︶に﹂﹃日本経済新聞﹄昭和40年7月13日13面</ref>。8月末以降疲労により調子を崩すが、最終的にリーグ最多の69試合に登板し20勝︵うちリリーフで19勝、さらに現在の規定ならば22セーブ︶、防御率2.07︵リーグ4位︶の好成績を収める。交代完了46試合は当時の日本プロ野球記録であったが、400勝を目指す現役晩年の[[金田正一]]の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。[[後楽園球場|後楽園]]の場内アナウンスを担当していた[[務台鶴]]<ref group="注">当時の[[読売新聞社]]販売局長・[[務臺光雄]]の姪</ref>が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分︵8時半︶前後であることに気づき<ref name="zakzak20091007"/>、﹁宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね﹂と発言したことがきっかけになり、'''8時半の男'''の[[ニックネーム]]が付けられた。20勝目は[[10月6日]]の阪神戦︵後楽園︶で、8回から2イニングを走者を出さずに抑えて達成した<ref>﹃巨人軍5000勝の記憶﹄40頁</ref>。同年の[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]︵MVP︶は[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]・[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠を獲得した王に僅か5票差でさらわれるが、川上は親しい記者に﹁宮田にやれなかったのか﹂と漏らしたほどであったといい<ref>﹃ジャイアンツ栄光の70年﹄[[ベースボールマガジン社]]、[[2004年]]、ISBN 4583612621
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{{by|1965年}}は故障も癒えて救援として獅子奮迅の活躍で、8月半ばまでに17勝2敗、防御率1.74の好成績を挙げ<ref>﹃プロ野球・燃焼の瞬間﹄59頁</ref>、 [[1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]のファン投票では[[村山実]]や[[金田正一]]を退け1位で選出された<ref>﹁オールスター ファン投票決まる 投手は宮田︵セ︶と林︵パ﹂︶に﹂﹃日本経済新聞﹄昭和40年7月13日13面</ref>。8月末以降疲労により調子を崩すが、最終的にリーグ最多の69試合に登板し20勝︵うちリリーフで19勝、さらに現在の規定ならば22セーブ︶、防御率2.07︵リーグ4位︶の好成績を収める。交代完了46試合は当時の日本プロ野球記録であったが、400勝を目指す現役晩年の[[金田正一]]の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。[[後楽園球場|後楽園]]の場内アナウンスを担当していた[[務台鶴]]<ref group="注">当時の[[読売新聞社]]販売局長・[[務臺光雄]]の姪</ref>が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分︵8時半︶前後であることに気づき<ref name="zakzak20091007"/>、﹁宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね﹂と発言したことがきっかけになり、'''8時半の男'''の[[ニックネーム]]が付けられた。20勝目は[[10月6日]]の阪神戦︵後楽園︶で、8回から2イニングを走者を出さずに抑えて達成した<ref>﹃巨人軍5000勝の記憶﹄40頁</ref>。同年の[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]︵MVP︶は[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]・[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠を獲得した王に僅か5票差でさらわれるが、川上は親しい記者に﹁宮田にやれなかったのか﹂と漏らしたほどであったといい<ref>﹃ジャイアンツ栄光の70年﹄[[ベースボールマガジン社]]、[[2004年]]、ISBN 4583612621
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