「山王まつり (富山市)」を編集中
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[[1690年]]([[元禄]]3年)に、[[富山藩]]2代藩主[[前田正甫]]が、[[神輿]]2基を寄進したことにより城下の氏子町を巡行する慣わしとなり祭礼が始まったとされ、富山城下を上げての総土産(うぶすな)祭りとして栄え賑わってきた。 |
[[1690年]]([[元禄]]3年)に、[[富山藩]]2代藩主[[前田正甫]]が、[[神輿]]2基を寄進したことにより城下の氏子町を巡行する慣わしとなり祭礼が始まったとされ、富山城下を上げての総土産(うぶすな)祭りとして栄え賑わってきた。 |
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現在も[[縁日]]の賑わいが最大の特徴で、600から700店の[[ |
現在も[[縁日]]の賑わいが最大の特徴で、600から700店の[[的屋|露店]]、[[お化け屋敷]]、瀬戸物や植木の店などが日枝神社境内を中心として、[[歩行者天国]]となる周辺道路、富山県最大の中心[[繁華街]]に並び連日夜遅くまで賑わう。[[平成]]の初め頃には1,000軒以上、最も多い時には千数百店の露店が、現在よりも広範囲に渡り軒を連ね、[[1972年]]([[昭和]]47年)までは境内にて[[木下大サーカス|木下サーカス]]やシバタサーカスなどのいくつかの[[サーカス]]団が毎年交代で興業していたほか、現在ではほとんど見られなくなった[[見世物小屋]]なども出ていた。現在は[[1974年]](昭和49年)より特別奉納行事として、県内外各地の祭りや民俗芸能などを招き見物客の目を楽しませている。 |
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宵祭りの[[5月30日]]には神事、行事が無事行われるよう祈願し、[[巫女]]による[[浦安の舞]]の奉納、神職のお祓い、境内のお祓いなどが行われる。5月31日と[[6月1日]]には[[神幸祭]]が行われ、厄払いを務める[[獅子舞]]、日枝神社にてご分霊を迎える儀式を行った神輿が、神職と共に氏子町全域を2日間に分け渡御する。また氏子神輿が氏子町を威勢よく練りまわすほか、子供神輿が大手町︵[[大手モール]]︶から[[繁華街]]を通り神社まで練り回す。[[2006年]]︵[[平成]]18年︶には、﹁とやまの文化財百選︵とやまの祭り百選部門︶﹂に選定されている。
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宵祭りの[[5月30日]]には神事、行事が無事行われるよう祈願し、[[巫女]]による[[浦安の舞]]の奉納、神職のお祓い、境内のお祓いなどが行われる。5月31日と[[6月1日]]には[[神幸祭]]が行われ、厄払いを務める[[獅子舞]]、日枝神社にてご分霊を迎える儀式を行った神輿が、神職と共に氏子町全域を2日間に分け渡御する。また氏子神輿が氏子町を威勢よく練りまわすほか、子供神輿が大手町︵[[大手モール]]︶から[[繁華街]]を通り神社まで練り回す。[[2006年]]︵[[平成]]18年︶には、﹁とやまの文化財百選︵とやまの祭り百選部門︶﹂に選定されている。
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== 廃絶した曳山 == |
== 廃絶した曳山 == |
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[[江戸時代]]には[[山車|曳山]]が9基あったとされ、﹁富山県史史料篇近世下︵町吟味所御觸書前田文書より引用されたもの︶﹂には[[1707年]]︵[[宝永]]4年︶11月2日に、'''猩々山、紫式部山、老莢山、陳鼓山、織姫山、業平山、揚貴妃山、分銅山、梅松山'''の曳山のほか、神輿や鉾などが城下を曳き回した記録が残されている。また同書には、[[1780年]]︵[[安永]]9年︶11月に新たに曳山が制作されたとの覚書がある。これらの曳山は何度か大火に遭っているが、富山城下には[[売薬]]などの小規模な商売人が多く、[[船問屋]]などのような豪商や大店 |
[[江戸時代]]には[[山車|曳山]]が9基あったとされ、﹁富山県史史料篇近世下︵町吟味所御觸書前田文書より引用されたもの︶﹂には[[1707年]]︵[[宝永]]4年︶11月2日に、'''猩々山、紫式部山、老莢山、陳鼓山、織姫山、業平山、揚貴妃山、分銅山、梅松山'''の曳山のほか、神輿や鉾などが城下を曳き回した記録が残されている。また同書には、[[1780年]]︵[[安永]]9年︶11月に新たに曳山が制作されたとの覚書がある。これらの曳山は何度か大火に遭っているが、富山城下には[[売薬]]などの小規模な商売人が多く、[[船問屋]]などのような豪商や大店が少なく、曳山を再興させるのはなかなか難しかったものと考察されている。
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== 朔日(ついたち)饅頭 == |
== 朔日(ついたち)饅頭 == |