岩村透
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いわむら とおる 岩村 透 | |
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生誕 | 1870年1月25日(明治3年1月25日) |
死没 | 1917年8月17日(48歳没) 神奈川県三浦市三崎 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 慶應義塾幼稚舎卒業、東京英和学校中退。ワイオミング・セミナリー卒(アメリカ・ペンシルベニア州キングストン) |
団体 | 国民美術協会 |
教職 | 東京英和学校(1893-1899)、東京美術学校(1899-1916)、慶應義塾大学文学科(兼任、1910-1917) |
留学校 | ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(ニューヨーク)、アカデミー・ジュリアン(パリ) |
筆名 | 観堂、観堂学人、鑑泉、芋洗(生)、欧斎など。 |
岩村 透︵いわむら とおる、明治3年︵1870年︶1月25日 - 大正6年︵1917年︶8月17日︶は明治後期から大正期にかけて活躍した美術批評家、東京美術学校教授。
経歴
東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に佐賀県令、愛媛県令、福岡県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社︵中村正直の塾︶、東京英和学校︵後の青山学院︶と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリーおよびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。ラスキンやハマトンの影響を受け、美術批評家を志す。1891年にロンドン、パリと移り、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。パリ滞在中に黒田清輝らと交友を持った。1892年にイタリア各地の美術を見て回った後、帰国。 1893年、母校・東京英和学校の図画・英語教師となり、この頃から本格的な美術批評を開始。1894年、明治美術学校で西洋美術史を講義。1896年黒田清輝が創立した白馬会に参加した。 1899年、東京美術学校の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した森鷗外の後任︶、1903年教授に就任。この間、1900年のパリ万博を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵1901年、新聞﹃二六新報﹄連載、1902年刊︶がベストセラーとなり、自由闊達な講義や活動で、美校に清新な気風をもたらした。1904年のセントルイス万博では美術部審査官を務め、彫刻や工芸にも批評の幅を広げる。アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより慶應義塾で西洋美術史を講義した。 雑誌﹃美術新報﹄の改革を1909年から編集者・坂井犀水と共に行ない、世界各地の印象派の動向を伝え、日本国内の新しい装飾芸術運動を支持。さらに1913年、雑誌﹃美術週報﹄を自ら創刊、美術行政に関するあらゆる提言を行う。工芸や建築にまで及ぶ多ジャンルの制作家たちの共働をめざし、1913年には国民美術協会︵初代会頭は建築家・中條精一郎︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このときロダンと会見した。また、ロンドンでルイージ・ルッソロの未来派音楽の演奏を聴いてレポートを残している[1]。この外遊では英・仏の美術界の要人たちと面会し、見識を深めた。 しかし第一次世界大戦の勃発のため帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、自由主義的な思想が危険視されたためと考えられる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、正木直彦校長を厳しく批判した。この間、持病の糖尿病が悪化して療養生活に入り、1917年に逝去。岩村の墓は、神奈川県三浦市三崎の本瑞寺にあり、同寺に1930年に県立された銅像は、朝倉文夫の作である[1]。没後、その先駆者の早すぎる死を惜しみ、多くの追悼行事が行われた。主要著書・翻訳
●芋洗生記﹃巴里之美術学生、他に美術談二﹄画報社、1903年1月。国立国会図書館デジタルコレクション。 ●﹃芸苑雑稿﹄画報社、1906年5月。全国書誌番号:40069579。 ●A・フロシンガム著、岩村透訳編﹃西洋美術史要 第五編 伊太利建築之部﹄画報社、1911年2月。 ●﹃美術と社会﹄趣味叢書発行所・趣味之友社︿趣味叢書 第12篇﹀、1915年12月。全国書誌番号:43016913。 ●宮川寅雄編 編﹃芸苑雑稿 他﹄平凡社︿東洋文庫 182﹀、1971年3月。全国書誌番号:75041113。 ●宮川寅雄編 編﹃芸苑雑稿 他﹄平凡社︿ワイド版東洋文庫 182﹀、2003年9月。全国書誌番号:22870914。収録‥巴里の美術学生、芸苑雑稿︵初集︶、芸苑雑稿︵2集︶、美術と社会、宮川寅雄解説。主要文献
●田辺徹﹃美術批評の先駆者、岩村透 ラスキンからモリスまで﹄藤原書店、2008年12月。ISBN 9784894346666。 ●今橋映子﹃近代日本の美術思想 美術批評家・岩村透とその時代﹄白水社︵上下︶、2021年註
- ^ 本瑞寺に存する岩村透の墓の設計者は不明である。
外部リンク
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 岩村(高俊)家第2代 1906年 - 1917年 |
次代 岩村博 |