「島秀雄」を編集中
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[[1955年]]︵昭和30年︶、[[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]]により引責辞任した[[長崎惣之助]]の後任として、[[十河信二]]が[[総裁|国鉄総裁]]に起用された。十河は総裁就任に際し、最適任の技術者として島に復帰を要請。当初は固辞していたものの、﹁広軌が実現できなかった父親の無念を、その子として完成する義務があるのではないか﹂との十河自らの説得や周囲の後押しにより、島は国鉄復帰に応じて技師長に就任<ref name=":1" /><ref name=":3" />。[[鉄道の電化|鉄道電化]]を主軸とする[[動力近代化計画|動力近代化]]推進の先頭に立ち、ひいては純国産技術による広軌高速鉄道﹁新幹線﹂計画に携わった︵詳細は[[新幹線]]ほかの項目を参照のこと︶。島は、過去の弾丸列車計画に一緒に携わった土木技術者[[大石重成]]を幹線調査室長に迎えて体制を整えた<ref name=":1" />。なお、車両設計担当者の中には息子の[[島隆 (鉄道技術者)|隆]]もいた<ref name=":4" />。
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[[1955年]]︵昭和30年︶、[[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]]により引責辞任した[[長崎惣之助]]の後任として、[[十河信二]]が[[総裁|国鉄総裁]]に起用された。十河は総裁就任に際し、最適任の技術者として島に復帰を要請。当初は固辞していたものの、﹁広軌が実現できなかった父親の無念を、その子として完成する義務があるのではないか﹂との十河自らの説得や周囲の後押しにより、島は国鉄復帰に応じて技師長に就任<ref name=":1" /><ref name=":3" />。[[鉄道の電化|鉄道電化]]を主軸とする[[動力近代化計画|動力近代化]]推進の先頭に立ち、ひいては純国産技術による広軌高速鉄道﹁新幹線﹂計画に携わった︵詳細は[[新幹線]]ほかの項目を参照のこと︶。島は、過去の弾丸列車計画に一緒に携わった土木技術者[[大石重成]]を幹線調査室長に迎えて体制を整えた<ref name=":1" />。なお、車両設計担当者の中には息子の[[島隆 (鉄道技術者)|隆]]もいた<ref name=":4" />。
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十河と島の二人三脚によって、[[東海道新幹線]]は実現したといわれるが、新幹線開通の前年の[[1963年]]︵昭和38年︶5月、十河が﹁新幹線予算不足の責任﹂を問われ﹁再々任されず﹂総裁を辞任。慰留されるも、島も後を追って国鉄を退職した。[[1964年]]︵昭和39年︶10月1日朝、[[東京駅]]で行われた東海道新幹線の出発式 |
十河と島の二人三脚によって、[[東海道新幹線]]は実現したといわれるが、新幹線開通の前年の[[1963年]](昭和38年)5月、十河が「新幹線予算不足の責任」を問われ「再々任されず」総裁を辞任。慰留されるも、島も後を追って国鉄を退職した。[[1964年]](昭和39年)10月1日朝、[[東京駅]]で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しなかった。島は、自宅の[[テレビ]]で「[[ひかり (列車)|ひかり]]」の発車を見たという。十河は前総裁と言うことで当日10時からの記念式典には招待されたが、島はこちらの招待も受けていない。 |
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[[1969年]](昭和44年)からは、<!--[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]にかなり遅れをとって設立された、--><!-- ← 日本の宇宙開発に関しては、生産研→宇宙研(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)・NASDAという三本立てで進行した、というややこしい事情があり、簡単に「かなり遅れをとって」などという形容をするのは完全に間違っている-->[[宇宙開発事業団]]の初代理事長に就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、研究者達を大いに励ましたという。前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より[[安全性]]信頼性を重視した[[ロケット]]・[[人工衛星]]開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」・「[[きく (人工衛星)|きく]]」・「[[放送衛星|ゆり]]」など植物名が付けられているのは、島の[[園芸]]趣味からきているという説がある<ref>{{Cite web|和書|title=ロケット開発七転び八起き第5回:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/special/rocket/history5/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。理事長職は2期8年続けて引退。 |
[[1969年]](昭和44年)からは、<!--[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]にかなり遅れをとって設立された、--><!-- ← 日本の宇宙開発に関しては、生産研→宇宙研(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)・NASDAという三本立てで進行した、というややこしい事情があり、簡単に「かなり遅れをとって」などという形容をするのは完全に間違っている-->[[宇宙開発事業団]]の初代理事長に就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、研究者達を大いに励ましたという。前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より[[安全性]]信頼性を重視した[[ロケット]]・[[人工衛星]]開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」・「[[きく (人工衛星)|きく]]」・「[[放送衛星|ゆり]]」など植物名が付けられているのは、島の[[園芸]]趣味からきているという説がある<ref>{{Cite web|和書|title=ロケット開発七転び八起き第5回:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/special/rocket/history5/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。理事長職は2期8年続けて引退。 |