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'''川勝 隆重'''︵かわかつ たかしげ、[[安永 (元号)|安永]]元年︵[[1772年]]︶ - 没年不詳︶は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。本姓は[[秦氏]]で、[[秦河勝]]の後裔とされる。通称は春之助、登之助。父は[[川勝隆忠]]。母は某氏。[[川勝広豊 (清三郎)|川勝清三郎広豊]]、[[川勝広峯]]らは叔父にあたる。兄に川勝隆源︵権吉郎、早世した︶、弟に川勝忠順︵小新六︶、川勝忠能︵民之助︶、某︵徳之助︶、姉妹に娘六人がいる。
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'''川勝 隆重'''︵かわかつ たかしげ、[[安永 (元号)|安永]]元年︵[[1772年]]︶ - 没年不詳︶は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。隆尚流川勝家5代の当主。本姓は[[秦氏]]で、[[秦河勝]]の後裔とされる。通称は春之助、登之助。父は[[川勝隆忠]]。母は某氏。[[川勝広豊 (清三郎)|川勝清三郎広豊]]、[[川勝広峯]]らは叔父にあたる。兄に川勝隆源︵権吉郎、早世した︶、弟に川勝忠順︵小新六︶、川勝忠能︵民之助︶、某︵徳之助︶、姉妹に娘六人がいる。
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[[寛政]]10年︵[[1798年]]︶4月25日、父隆忠の家督︵[[上野国|上野]]・[[相模国|相模]]内2,800石︶を継ぎ、小普請となった。隆重、時に27歳であった。同年6月13日、初めて将軍[[徳川家斉|家斉]]に拝謁した。﹃寛政重修諸家譜﹄編纂時の当主。定紋は五七桐。寛政11年︵[[1799年]]︶時点で年齢は28歳、役職は小普請︵山口十二番︶。屋敷は小石川築地。次に家督を継いだ人物については不詳。
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[[寛政]]10年︵[[1798年]]︶4月25日、父隆忠の家督︵[[上野国|上野]]・[[相模国|相模]]内2,800石︶を継ぎ、小普請となった。隆重、時に27歳であった。同年6月13日、初めて将軍[[徳川家斉|家斉]]に拝謁した。﹃寛政重修諸家譜﹄編纂時の当主。定紋は五七桐。寛政11年︵[[1799年]]︶時点で年齢は28歳、役職は小普請︵山口十二番︶。屋敷は小石川築地。次に家督を継いだ人物については不詳。
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2009年5月5日 (火) 14:32時点における版
川勝 隆重︵かわかつ たかしげ、安永元年︵1772年︶ - 没年不詳︶は、江戸時代の旗本。隆尚流川勝家5代の当主。本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされる。通称は春之助、登之助。父は川勝隆忠。母は某氏。川勝清三郎広豊、川勝広峯らは叔父にあたる。兄に川勝隆源︵権吉郎、早世した︶、弟に川勝忠順︵小新六︶、川勝忠能︵民之助︶、某︵徳之助︶、姉妹に娘六人がいる。
寛政10年︵1798年︶4月25日、父隆忠の家督︵上野・相模内2,800石︶を継ぎ、小普請となった。隆重、時に27歳であった。同年6月13日、初めて将軍家斉に拝謁した。﹃寛政重修諸家譜﹄編纂時の当主。定紋は五七桐。寛政11年︵1799年︶時点で年齢は28歳、役職は小普請︵山口十二番︶。屋敷は小石川築地。次に家督を継いだ人物については不詳。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
- 石井良助監修、小川恭一編著『江戸幕府旗本人名事典(第1巻)』原書房、1989年
関連項目
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