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'''本多 忠義'''︵ほんだ ただよし、[[1602年]]︵[[慶長]]7年︶ - [[1676年]]︵[[延宝]]4年︶︶は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[本多忠勝]]の長男・[[本多忠政]]の三男。妻は[[森忠政]]の娘。
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祖父の血を受け継いだ勇将で、[[1614年]]からの[[大坂の陣]]では幼少であるにも関わらず出陣して功を挙げた。[[1631年]]、父・忠政が死去すると、[[播磨]]姫路の所領のうち、4万石を分与された。[[1639年]]、[[遠州]]掛川7万石に加増移封され、[[1644年]]には[[越後国]][[村上藩]]10万石に加増移封された。[[1649年]]、[[陸奥国]]白河12万石へ加増移封される。 |
祖父の血を受け継いだ勇将で、[[1614年]]からの[[大坂の陣]]では幼少であるにも関わらず出陣して功を挙げた。[[1631年]]、父・忠政が死去すると、[[播磨]][[姫路藩]]の所領のうち、4万石を分与された。[[1639年]]、[[遠州]][[掛川藩]]7万石に加増移封され、[[1644年]]には[[越後国]][[村上藩]]10万石に加増移封された。[[1649年]]、[[陸奥国]][[白河藩]]12万石へ加増移封される。
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しかし白河における忠義の統治は最悪で、領民に対しては新しい税を新設したりして重税を強いるなど、悪政を行なって民を苦しめている。[[1662年]]、隠居して鈍斎と号した。1676年9月、75歳で死去。法名は大信院本誓忠義大居士。はじめは[[福島県]][[白河市]]の久松寺に葬られたが、のち[[奈良県]]添上郡の玉竜寺に改葬されている。
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しかし白河における忠義の統治は最悪で、領民に対しては新しい税を新設したりして重税を強いるなど、悪政を行なって民を苦しめている。[[1662年]]、隠居して鈍斎と号した。1676年9月、75歳で死去。法名は大信院本誓忠義大居士。はじめは[[福島県]][[白河市]]の久松寺に葬られたが、のち[[奈良県]]添上郡の玉竜寺に改葬されている。
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2005年3月5日 (土) 07:01時点における版
本多 忠義︵ほんだ ただよし、1602年︵慶長7年︶ - 1676年︵延宝4年︶︶は、江戸時代前期の大名。本多忠勝の長男・本多忠政の三男。妻は森忠政の娘。
祖父の血を受け継いだ勇将で、1614年からの大坂の陣では幼少であるにも関わらず出陣して功を挙げた。1631年、父・忠政が死去すると、播磨姫路藩の所領のうち、4万石を分与された。1639年、遠州掛川藩7万石に加増移封され、1644年には越後国村上藩10万石に加増移封された。1649年、陸奥国白河藩12万石へ加増移封される。
しかし白河における忠義の統治は最悪で、領民に対しては新しい税を新設したりして重税を強いるなど、悪政を行なって民を苦しめている。1662年、隠居して鈍斎と号した。1676年9月、75歳で死去。法名は大信院本誓忠義大居士。はじめは福島県白河市の久松寺に葬られたが、のち奈良県添上郡の玉竜寺に改葬されている。