「本庄氏」を編集中
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児玉庄氏︵=児玉党︶の本宗家を継いだ本庄氏は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]︵[[14世紀]]中頃から末︶では[[南朝 (日本)|南朝廷]]側=[[新田義貞]]に就き、児玉党の弱体化に繋がった。[[15世紀]]初めの[[上杉禅秀の乱]]では、[[上杉禅秀|禅秀]]︵[[上杉氏#犬懸上杉家|犬懸上杉氏]]︶に味方し、所領を没収されるもなお足利氏に抵抗を続けた。15世紀中頃になると、[[山内上杉氏]]に代々仕えることとなるが、[[五十子の戦い]]以降、上杉氏は負け戦が続き、[[ |
児玉庄氏︵=児玉党︶の本宗家を継いだ本庄氏は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]︵[[14世紀]]中頃から末︶では[[南朝 (日本)|南朝廷]]側=[[新田義貞]]に就き、児玉党の弱体化に繋がった。[[15世紀]]初めの[[上杉禅秀の乱]]では、[[上杉禅秀|禅秀]]︵[[上杉氏#犬懸上杉家|犬懸上杉氏]]︶に味方し、所領を没収されるもなお足利氏に抵抗を続けた。15世紀中頃になると、[[山内上杉氏]]に代々仕えることとなるが、[[五十子の戦い]]以降、上杉氏は負け戦が続き、[[河越夜戦]]を初め、北条方に押され続けた末、本庄氏は後北条氏に属すこととなり、[[小田原征伐]]で没落することとなる。南北朝時代、南朝に属したことで新田氏の家臣団との親交があり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]ではその残された家臣達の末裔を本庄に移住させることによって、城下町を一から形成させることに成功している。これは後の[[本庄宿]]の基盤となる。また、戦国期、本庄氏一族の中には[[成田氏]]の家臣となった一団も存在する。
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*少なくとも、大別して、﹁'''[[庄家次|家次]]系本庄氏'''﹂と﹁'''時家系本庄氏'''﹂がある<!-- ﹃<本庄・未来を跳ぶ> 本庄市勢要覧’94﹄や﹃本庄人物事典﹄などなど、本庄市関連の書物全般の見解であり、まず頼家を氏祖とする見解は現在の研究者の間にはない。 -->。児玉党の本宗家を継いだのは時家系の方である。複数ある本庄氏関連の系図の中には、﹁頼家系本庄氏﹂が見られるが、児玉の伝承では、頼家は嫡子を作る前に戦死したとあるため、系図の信憑性は不明である。また、頼家や家次が本庄氏を名乗ったかは疑わしい点があり、確実に本庄氏を名乗ったと言えるのは、家次の子息である[[本庄朝次|朝次]]と、家次の弟である時家のみである。
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*少なくとも、大別して、﹁'''[[庄家次|家次]]系本庄氏'''﹂と﹁'''時家系本庄氏'''﹂がある<!-- ﹃<本庄・未来を跳ぶ> 本庄市勢要覧’94﹄や﹃本庄人物事典﹄などなど、本庄市関連の書物全般の見解であり、まず頼家を氏祖とする見解は現在の研究者の間にはない。 -->。児玉党の本宗家を継いだのは時家系の方である。複数ある本庄氏関連の系図の中には、﹁頼家系本庄氏﹂が見られるが、児玉の伝承では、頼家は嫡子を作る前に戦死したとあるため、系図の信憑性は不明である。また、頼家や家次が本庄氏を名乗ったかは疑わしい点があり、確実に本庄氏を名乗ったと言えるのは、家次の子息である[[本庄朝次|朝次]]と、家次の弟である時家のみである。
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