「東久邇成子」を編集中
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8月15日の[[玉音放送]]に際しては、涙にくれる東久邇宮家の中で﹁さあ、これからですよ﹂と第1声を発した<ref name="kojo-158">{{Harvnb|北條|酒井|霜山|1973|p=158}}</ref>。また、今生の別れになると覚悟して、車で東京に向かい、天皇・皇后と面会した<ref name="kojo-158"/>。
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8月15日の[[玉音放送]]に際しては、涙にくれる東久邇宮家の中で﹁さあ、これからですよ﹂と第1声を発した<ref name="kojo-158">{{Harvnb|北條|酒井|霜山|1973|p=158}}</ref>。また、今生の別れになると覚悟して、車で東京に向かい、天皇・皇后と面会した<ref name="kojo-158"/>。
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日付は不明ながら、﹁昭和21年前田邸で﹂撮影された[[盛厚王]]、[[前田菊子]]及び[[酒井美意子]]などと共にフランス軍のジノーヴィー・ペシュコフ将軍<ref>1884-1966。[[ヤーコフ・スヴェルドロフ|スヴェルドルフ]]の兄にして[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の養子となったので[[ユダヤ教]]から[[正教会]]に改宗し、ゴーリキーの本名を姓と父称にしてジノーヴィー・アレクセーエヴィチ・ペシュコフとなる。[[日露戦争]]で徴兵を避ける為にロシアから亡命した後、[[ボリシェヴィキ]]と絶縁したようで[[第一次世界大戦]]勃発に際して[[フランス外国人部隊|フランス外人部隊]]に入隊。右腕と引き換えに外人部隊の一兵卒から将軍に昇進した希有な経歴にもかかわらず、何故か日本で刊行された外人部隊ものの本では言及されない人物。1943年に[[国民政府]]が[[ヴィシー政権]]を断交してフランス国民解放委員会を承認した時の駐華代表・[[フランス共和国臨時政府]]の駐華大使を経て、昭和21年から25年にかけて日本に駐在。</ref>との記念写真がある<ref>{{Cite book|和書 |title=皇女照宮 |date= |
日付は不明ながら、﹁昭和21年前田邸で﹂撮影された[[盛厚王]]、[[前田菊子]]及び[[酒井美意子]]などと共にフランス軍のジノーヴィー・ペシュコフ将軍<ref>1884-1966。[[ヤーコフ・スヴェルドロフ|スヴェルドルフ]]の兄にして[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の養子となったので[[ユダヤ教]]から[[正教会]]に改宗し、ゴーリキーの本名を姓と父称にしてジノーヴィー・アレクセーエヴィチ・ペシュコフとなる。[[日露戦争]]で徴兵を避ける為にロシアから亡命した後、[[ボリシェヴィキ]]と絶縁したようで[[第一次世界大戦]]勃発に際して[[フランス外国人部隊|フランス外人部隊]]に入隊。右腕と引き換えに外人部隊の一兵卒から将軍に昇進した希有な経歴にもかかわらず、何故か日本で刊行された外人部隊ものの本では言及されない人物。1943年に[[国民政府]]が[[ヴィシー政権]]を断交してフランス国民解放委員会を承認した時の駐華代表・[[フランス共和国臨時政府]]の駐華大使を経て、昭和21年から25年にかけて日本に駐在。</ref>との記念写真がある<ref>{{Cite book|和書 |title=皇女照宮 |date=7月15日 |year=昭和48年 |publisher=秋元書房 |page=167}}</ref>。
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結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、[[1947年]]︵昭和22年︶10月14日、[[東久邇宮稔彦王]]が[[臣籍降下|皇族の身分を離れた]]ため、[[皇室典範]]第13条の規定により、自身も夫・[[盛厚王]]と同時に皇族の身分を離れた<ref>{{Cite wikisource|和書|wslink=恒憲王妃敏子等各殿下皇族の身分を離れられる件|title=昭和22年宮内府告示第16号|author=[[宮内府]]|wslanguage=ja}}</ref>。以後は、﹁'''東久邇 成子'''︵ひがしくに しげこ︶﹂と名乗る。
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結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、[[1947年]]︵昭和22年︶10月14日、[[東久邇宮稔彦王]]が[[臣籍降下|皇族の身分を離れた]]ため、[[皇室典範]]第13条の規定により、自身も夫・[[盛厚王]]と同時に皇族の身分を離れた<ref>{{Cite wikisource|和書|wslink=恒憲王妃敏子等各殿下皇族の身分を離れられる件|title=昭和22年宮内府告示第16号|author=[[宮内府]]|wslanguage=ja}}</ref>。以後は、﹁'''東久邇 成子'''︵ひがしくに しげこ︶﹂と名乗る。
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