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'''東福寺'''︵とうふくじ︶は、[[熊本県]][[菊池市]]亘にある[[天台宗]]の寺院である。菊池五山<ref>本寺のほか、無量山西福寺、手水山南福寺、袈裟尾山北福寺、九儀山大琳寺。</ref>の1つ。
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'''東福寺'''(とうふくじ)は、[[熊本県]][[菊池市]]亘にある[[天台宗]]の寺院である。[[菊池五山 (寺格)|菊池五山]]の1つ。 |
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== 歴史 == |
2012年8月24日 (金) 12:32時点における版
東福寺︵とうふくじ︶は、熊本県菊池市亘にある天台宗の寺院である。菊池五山の1つ。
歴史
比叡山延暦寺正覚院の末寺で、朱雀天皇の勅願により、天慶元年︵938年︶、天台僧の大僧都・證慶法印によって開創されたと伝える。時の肥後国司・尾藤隆房が大檀那となり建立されたという。
以後、村上、円融、堀河と歴代天皇の綸旨を賜り、堀河天皇の寛治3年︵1089年︶には勅願寺になったとする[1]。
征西将軍懐良親王の命により、菊池氏第15代菊池武光が﹁菊池五山﹂を定めるに当たっては、当寺を再興して禅刹とした上、五山の第一となした。
武光が正観寺を建立してこれを菩提寺とするまでは、当寺が菊池氏の菩提寺であった。そのため、境内やその近隣には菊池一族の墓が現存する。往時は寺領25町歩、末寺も15箇寺を数えたという。菊池氏の勢力が衰えた後は再び天台宗に復し、現在に至る。
慶長6年︵1601年︶、肥後国主加藤清正の時、寺領を全て没収され、末寺も失う。
現在の本堂は文政2年︵1819年︶に再建されたものである。
文化財
●木造十一面千手観音立像(本尊) 平安末期︵伝行基作︶ - 熊本県指定重要文化財
●木造不動明王立像(脇侍) 室町前期 - 熊本県指定重要文化財
●木造毘沙門天立像(脇侍) 室町前期 - 熊本県指定重要文化財
●不動明王掛軸 - 熊本県指定重要文化財
●五輪塔(菊池覚勝[2]公墓) - 菊池市指定文化財
●五輪塔(菊池武村[3]公墓) - 菊池市指定文化財
●菊地家二十五代肖像画二十五本 江戸末期
東福寺墓石群の主要な墓
●元弘塔 菊池覚勝(遠基入道寂正)
●享保塔 第35代住職大阿闍梨焉立大和尚
●宝徳塔 第22代住職権大僧都性澄法印
●建武塔 菊池武村
●応永塔 木庭城主城越前守為重
●永享塔 第20代住職長能大阿闍梨
●応永塔 第19代住職隆盛大僧都
●大永塔 第27代住職長尊大阿闍梨
かつて存在した僧坊
●歓喜院 - 東福寺の南東、菊池武重の墓所がある地に存在した。
●多門院
●常楽坊
●勝蔵坊
●常行坊
●得行坊
●實相坊
●清満坊
●大門坊
●圓満坊
●萬善坊
●什覚坊
●實満坊
●風光坊
●歓清坊
●大徳院
御詠歌
とうふくを西へつたえていそく身は わたりに舟を得んここちすれ
所在地
●熊本県菊池市亘406
交通
●電鉄バス菊池温泉バス停より徒歩15分
注釈
(一)^ ただし、﹃肥後国誌﹄は、寺伝が書かれた寺の縁起や綸旨等に偽造の疑いがあることを指摘する。
(二)^ 12代菊池武時とともに博多合戦にて討死。
(三)^ 足利尊氏との合戦で新田義貞軍に加わり京都大渡橋にて討死。
参考文献
●﹁菊池風土記 巻4﹂武藤厳男ら編﹃肥後文献叢書 第3巻﹄(隆文館,1910)536-543頁
●高橋小太郎﹃菊池自慢 一名・菊池案内記﹄(高橋小太郎,1915) 8-9頁
●水曜会編﹃菊池余芳﹄(文明堂書店,1915)27頁
●後藤是山編﹃肥後国誌 校訂 上﹄(九州日日新聞社印刷部,1916)426-430頁
●﹃菊池忠誠史﹄(熊本県立菊池高等女学校々友会,1939)77頁
●高濱政五郎﹃霊場肥後33カ所﹄(熊本新評社,1993)115-117頁
外部リンク
●東福寺
●東福寺 - じゃらん観光ガイド