「柴田昌吉」を編集中
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1869年(明治2年)3月31日には、フルベッキが[[大学南校]](後の[[東京大学]])設立のために上京の途で横浜に到着するが、その翌日に柴田はフルベッキと会っている<ref name="doc3"/>。 |
1869年(明治2年)3月31日には、フルベッキが[[大学南校]](後の[[東京大学]])設立のために上京の途で横浜に到着するが、その翌日に柴田はフルベッキと会っている<ref name="doc3"/>。 |
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明治初年には、横浜と東京で辞典編集に努め<ref name="doc2">{{Cite journal|和書 |author=池田 哲郎 |title=九州英学史 (下) |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1972 |volume=1972 |issue=4 |pages=1-26 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1972.1 }}</ref>、1873年︵明治6年︶には、[[子安峻]]との共著である﹁英和字彙﹂を完成させ、 |
明治初年には、横浜と東京で辞典編集に努め<ref name="doc2">{{Cite journal|和書 |author=池田 哲郎 |title=九州英学史 (下) |journal=英学史研究 |issn=1883-9282 |publisher=日本英学史学会 |year=1972 |volume=1972 |issue=4 |pages=1-26 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1972.1 }}</ref>、1873年︵明治6年︶には、[[子安峻]]との共著である﹁英和字彙﹂を完成させ、読売新聞の前身である日就社(子安・柴田・[[本野盛亨]]創立)から刊行する<ref name="doc3"/>。これは柴田辞書とよばれた<ref name="doc1"/>。
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その後、長崎に帰郷し、1884年(明治17年)から1892年(明治25年)には、問萬屋町に柴田英語学校(英語義塾)を開いた。一時はその生徒数は百名以上となり、盛大であった<ref name="doc2"/>。 |
その後、長崎に帰郷し、1884年(明治17年)から1892年(明治25年)には、問萬屋町に柴田英語学校(英語義塾)を開いた。一時はその生徒数は百名以上となり、盛大であった<ref name="doc2"/>。 |
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塾では柴田自身は専ら辞書の校定に従事していたことから、実際の授業の大部分は中川務、長瀬源次郎、堀英次郎、川島寅三郎、米田芳長などが担当したといわれる<ref name="doc2"/>。 |
塾では柴田自身は専ら辞書の校定に従事していたことから、実際の授業の大部分は中川務、長瀬源次郎、堀英次郎、川島寅三郎、米田芳長などが担当したといわれる<ref name="doc2"/>。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |