「沖田みつ」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
4行目: | 4行目: | ||
[[弘化]]3年([[1846年]])、井上林太郎(後、[[沖田林太郎]])と結婚して家督を存続させた。 |
[[弘化]]3年([[1846年]])、井上林太郎(後、[[沖田林太郎]])と結婚して家督を存続させた。 |
||
[[嘉永]]6年([[1853年]])1月、長男[[沖田芳次郎|芳次郎]]を出産。 |
|||
[[慶応]]4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が勃発すると、[[江戸]]へ撤退してきた新選組から[[結核]]を患っていた弟・総司の看病を任されていたとされる。しかし、まもなく夫や家族と共に江戸を脱出して[[庄内藩]]へ移る。 |
[[慶応]]4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が勃発すると、[[江戸]]へ撤退してきた新選組から[[結核]]を患っていた弟・総司の看病を任されていたとされる。しかし、まもなく夫や家族と共に江戸を脱出して[[庄内藩]]へ移る。 |
2005年7月29日 (金) 17:22時点における版
沖田みつ︵おきた みつ、天保4年4月8日(1833年5月26日)-明治40年(1907年)11月2日︶は、幕末・明治の一般女性。新選組一番隊長沖田総司の姉。
元奥州白河藩士沖田勝次郎︵林太郎とも︶の長女に生まれる。
弘化3年(1846年)、井上林太郎(後、沖田林太郎)と結婚して家督を存続させた。
嘉永6年(1853年)1月、長男芳次郎を出産。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、江戸へ撤退してきた新選組から結核を患っていた弟・総司の看病を任されていたとされる。しかし、まもなく夫や家族と共に江戸を脱出して庄内藩へ移る。
同年5月30日、江戸にて弟・総司が病死。
明治5年(1872年)、東京へ帰還。
明治16年(1883年)、夫・林太郎が死去したため、転勤中の末男・貞吉を頼って満州の旅順へ赴く。
明治40年(1907年)、満州で他界。享年75歳。