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「河津暹」の版間の差分

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河津暹(かわづ すすむ、{{和暦|1875}}[[1月20日]]〜{{和暦|1943}}[[3月28日]])は、[[日本]]の[[経済学者]]・社会政策学者。[[法学博士]]・[[東京大学|東京帝国大学]]名誉教授。しばしば音読みで「'''せん'''」とも称される<ref>『日本人物大事典 現代』『日本近現代人物履歴大事典』には「せん」を宛てている。</ref>。

'''河津暹'''(かわづ すすむ、{{和暦|1875}}[[1月20日]]〜{{和暦|1943}}[[3月28日]])は、[[日本]]の[[経済学者]]・社会政策学者。[[法学博士]]・[[東京大学|東京帝国大学]]名誉教授。しばしば音読みで「'''せん'''」とも称される<ref>『日本人物大事典 現代』『日本近現代人物履歴大事典』には「せん」を宛てている。</ref>。



== 略歴 ==

== 略歴 ==

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== エピソード ==

== エピソード ==

彼の名の「暹」は難読で、当時[[シャム]](暹羅 / 現在の[[タイ]])の略称として用いられていたことから、学生はしばしば彼を「シャム」と呼称した<ref>『大学という病』、p.23。</ref>。

彼の名の「暹」は難読で、当時[[シャム]](暹羅 / 現在の[[タイ]])の略称として用いられていたことから、学生はしばしば彼を「'''シャム'''」と呼称した<ref>『大学という病』、p.23。</ref>。



東大における彼の授業は毎年毎年全く決まり切った内容であり、教科書となった著書『経済原論』は「常識の書物」と評されていた。のちの[[法学者]]・[[戒能通孝]]の回想によると学生が先輩の書き込みの入ったその教科書を片手に受講すると、「ここでしゃれをいう」と書き込みの入った箇所の講義ではそのとおり洒落が入り、それどころか「ここでせきをする」とされた箇所ではその通りに咳をしたという<ref>同上、p.41。</ref>。

東大における彼の授業は毎年毎年全く決まり切った内容であり、教科書となった著書『経済原論』は「常識の書物」と評されていた。のちの[[法学者]]・[[戒能通孝]]の回想によると学生が先輩の書き込みの入ったその教科書を片手に受講すると、「ここでしゃれをいう」と書き込みの入った箇所の講義ではそのとおり洒落が入り、それどころか「ここでせきをする」とされた箇所ではその通りに咳をしたという<ref>同上、p.41。</ref>。


2011年5月6日 (金) 18:32時点における版


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主要著作

エピソード


 / [2]

[3]

1928








    1979

   2004



  2001 ISBN 4120031861



(一)^  

(二)^ p.23

(三)^ p.41