河津祐之
河津 祐之︵かわづ すけゆき、嘉永2年4月8日︵1849年4月30日︶ - 明治27年︵1894年︶7月12日︶は、明治時代前期の官僚[1][2]。元老院書記官、大阪控訴院検事長[1]、名古屋控訴裁判所検事長、司法大書記官、司法省刑事局長、逓信次官[1]などを歴任。東京法学校︵現法政大学︶校長。通称は四郎。
河津祐之の墓︵玉林寺︶
嘉永2年︵1849年︶4月8日に三河国西端藩の藩士である黒澤家に生まれる[1]。幼名は孫次郎︵孫四郎︶[1][2]。長じて幕臣である河津祐邦の娘婿となり、河津家の家督を継いで河津祐之と改名[2]。
文久2年︵1862年︶から江戸幕府の洋書調所︵翌年開成所へ改称、東京大学の源流︶で教育を受け[2]、また箕作麟祥の門下となって学問を修め、慶応2年︵1866年︶、幕府の外国方翻訳掛となる[1]。その後、﹃和英対訳辞書﹄などを出版して、語学の天才と言われた[3]。
明治時代になってからは、明治3年︵1870年︶3月から大学南校︵現東京大学︶に出仕し、同7年︵1874年︶9月まで文部関係の官吏として文部中教授、文部省学制取調掛などを歴任[2]。明治4年︵1871年︶12月から箕作麟祥の下で、学制の起草にあたり[4]、明治5年︵1872年︶5月から教育制度調査のためフランスに留学[1]。明治6年︵1873年︶以降に文部省から刊行された﹃仏国学制﹄の翻訳者を務めた[5]。
明治8年︵1875年︶6月から同12年︵1879年︶まで元老院書記官となり[2]、ボアソナードを援け法典調査・起草などに参与。明治13年︵1880年︶11月に検事となり、大阪控訴院・名古屋控訴裁判所︵現在の高等裁判所︶の検事長を務め[2]、同15年︵1882年︶8月に退官[2]。また、同時期には嚶鳴社に入り、民権思想を広める活動も行なった。
退官後は自由党に参加[2]。﹃日本立憲政党新聞﹄︵現毎日新聞︶の主幹となり、明治18年︵1885年︶6月まで在社[2]。
その後、再び官界に戻り、1886年︵明治19年︶2月、司法大書記官となり[2]、3月に司法省刑事局長となった。刑事局長時代には、東京法学校︵現法政大学︶の校長に就任して、東京仏学校との合併による和仏法律学校設立に従事した。1890年︵明治23年︶に勅任官[6]。1891年︵明治24年︶の大津事件︵日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ暗殺未遂事件︶に際しては、司法省刑事局長として対応にあたった[2]。同年7月23日には逓信次官となった[2]が、1893年︵明治26年︶3月、病気療養のため退官した[2]。
療養に努めるが、翌年︵1894年︶7月12日に死去[1][2]。享年46[2]。墓は東京都台東区谷中の玉林寺にある[2]。法名は総達院殿英倫祐之大居士[2]。
経歴[編集]
栄典・授章・授賞[編集]
位階 ●1890年︵明治23年︶8月6日 – 従四位[7] 勲章等 ●1886年︵明治19年︶11月30日 - 勲六等単光旭日章[8] ●1890年︵明治23年︶12月26日- 勲五等瑞宝章[9] ●1892年︵明治25年︶6月29日 - 勲四等瑞宝章[10]家族・親族[編集]
長男の暹︵すすむ︶は経済学者で東京帝国大学経済学部教授となった。なお暹の三男で東京大学工学部教授の祐元の子も曾祖父と同名の﹁祐之﹂である。著書[編集]
●﹃英仏百年戦記﹄︵松栢堂、1876年︶翻訳書[編集]
●コルリール︵Collier︶・フランシス︵William Francis︶著 ﹃西洋易知録﹄︵知新館、1869年︶ ●﹃仏国学制﹄︵文部省、1873-1876年︶ ●ミギェ−︵François Mignet︶著 ﹃仏国革命史﹄︵加納久宣、1876-1878年︶[1][2] ●フランク︵Adolphe Franck︶著 ﹃修身原論﹄︵文部省編輯局、1884年︶ ●オルトラン︵Joseph Ortolan︶著 ﹃仏国刑法精義﹄︵岡崎高厚、1884年︶脚注[編集]
(一)^ abcdefghi﹃講談社 日本人名大辞典﹄ ﹁河津祐之﹂ ︵569頁︶。 (二)^ abcdefghijklmnopqrs﹃国史大辞典﹄3巻 吉川弘文館 ﹁河津祐之﹂︵734頁︶。 (三)^ ﹃谷中﹄ (四)^ 文部科学省﹁学制の制定﹂﹃学制百年史﹄ (五)^ ﹁小学総論﹂﹁中学総論﹂の校閲、﹁大学総論﹂の翻訳。 (六)^ 磯ヶ谷 pp. 826-827 (七)^ ﹃官報﹄第2136号﹁叙任及辞令﹂1890年8月12日。 (八)^ ﹃官報﹄第1027号﹁叙任﹂1886年12月1日。 (九)^ ﹃官報﹄第2251号﹁叙任及辞令﹂1890年12月27日。 (十)^ ﹃官報﹄第2701号﹁叙任及辞令﹂1892年6月30日。参考文献[編集]
●﹃講談社 日本人名大辞典﹄ 上田正昭監修 講談社 ISBN 4-06-210800-3 ●﹃国史大辞典﹄3巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00503-6 ●﹃日本近現代人名辞典﹄ 吉川弘文館 ISBN 4-642-01337-7 ●磯ケ谷紫江﹃墓碑史蹟研究﹄後苑荘、1927年。 国立国会図書館 ●﹃谷中・桜木・上野公園路地裏ツアー 河津祐之﹄。外部リンク[編集]
●国立国会図書館 憲政資料室 河津祐之関係文書公職 | ||
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先代 前島密(→欠員) |
逓信次官 1891年 - 1893年 |
次代 鈴木大亮 |
先代 林三介 |
函館控訴院検事長 1891年 |
次代 富永冬樹 |
先代 人見恒民 |
名古屋控訴裁判所検事長 1882年 |
次代 人見恒民 |
先代 (新設) |
大阪控訴裁判所検事長 1881年 - 1882年 |
次代 橋口兼三 |