「津軽地方」を編集中
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中世には岩木川河口の[[十三湊]]があった「西北五地区」が貿易(国際・国内)で活況を呈したが、[[南部氏]]の侵入により衰退した。 |
中世には岩木川河口の[[十三湊]]があった「西北五地区」が貿易(国際・国内)で活況を呈したが、[[南部氏]]の侵入により衰退した。 |
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江戸時代には[[弘前城]]が置かれ[[城下町]]が開かれた |
江戸時代には[[弘前城]]が置かれ[[城下町]]が開かれた弘前のある「中弘南黒地区」が中心になった。日本海側の[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]・[[深浦町|深浦]]は[[北前船]]の寄港地となって栄えた。特に、鰺ヶ沢は津軽産米の積出港として、最も重要視された。 |
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明治時代になり、[[廃藩置県]]により旧藩を引き継いだ弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県([[斗南藩]])、七戸県([[七戸藩]])、八戸県([[八戸藩]])と北海道渡島半島の館県([[館藩]])の6県が合併し、弘前県が成立した。この際に県庁は弘前に置かれたが、初代県大参事の野田豁通が県庁を現在の青森市に移転し、県名を青森県とすることを決定した。さらに本州の鉄道の北のターミナル、および北海道との窓口となって[[青函連絡船]]が就航するようになったため、青森が存在感を増すことになった。 |
明治時代になり、[[廃藩置県]]により旧藩を引き継いだ弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県([[斗南藩]])、七戸県([[七戸藩]])、八戸県([[八戸藩]])と北海道渡島半島の館県([[館藩]])の6県が合併し、弘前県が成立した。この際に県庁は弘前に置かれたが、初代県大参事の野田豁通が県庁を現在の青森市に移転し、県名を青森県とすることを決定した。さらに本州の鉄道の北のターミナル、および北海道との窓口となって[[青函連絡船]]が就航するようになったため、青森が存在感を増すことになった。 |
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その後、弘前市は[[第8師団 (日本軍)|陸軍第八師団]]と[[弘前高等学校 (旧制)|旧制弘前高校]]を擁した軍事・学園都市として、1889年(明治22年)の統計では、弘前市は人口30,487人で全国29位、[[東北地方]]では[[仙台市]]、[[盛岡市]]に次いで3位だった。 戦後、日本軍の解体により第八師団も解散したが、[[弘前大学]]が新設されたことから、弘前市は引き続き |
その後、弘前市は[[第8師団 (日本軍)|陸軍第八師団]]と[[弘前高等学校 (旧制)|旧制弘前高校]]を擁した軍事・学園都市として、1889年(明治22年)の統計では、弘前市は人口30,487人で全国29位、[[東北地方]]では[[仙台市]]、[[盛岡市]]に次いで3位だった。 戦後、日本軍の解体により第八師団も解散したが、[[弘前大学]]が新設されたことから、弘前市は引き続き学園都市としての性格を保ち続けている。 |
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[[白神山地]]の[[世界遺産]]登録を期に、[[弘前ねぷた]]・[[平川ねぷた]]・[[黒石ねぷた]]・[[五所川原立佞武多]]をはじめとする[[ねぷた]]などの文化や雄大な自然を有する津軽地方は、観光地として集客能力を増している。 |
[[白神山地]]の[[世界遺産]]登録を期に、[[弘前ねぷた]]・[[平川ねぷた]]・[[黒石ねぷた]]・[[五所川原立佞武多]]をはじめとする[[ねぷた]]などの文化や雄大な自然を有する津軽地方は、観光地として集客能力を増している。 |