「源俊賢」を編集中
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[[円融天皇|円融朝]]の[[天延]]3年︵[[975年]]︶[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]し、[[貞元 (日本)|貞元]]2年︵[[977年]]︶侍従に任官する。[[永観]]2年︵[[984年]]︶従五位上・左兵衛権佐に叙任されると、[[寛和]]2年︵[[986年]]︶[[近衛府|左近衛権少将]]と[[花山天皇|花山朝]]から[[一条天皇|一条朝]]初頭にかけて武官を務め順調に昇進する。俊賢・[[源経房|経房]]兄弟の後見役に、当時の執政である[[藤原兼家]]がついていたと見られ<ref>久保木秀夫﹁枕草子における源経房﹂﹃語文﹄日本大学国文学会、1997年</ref>、この間の昇進に兼家の思惑・配慮を読みとることができる<ref name="tk15">高橋[1999: 15]</ref>。
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[[円融天皇|円融朝]]の[[天延]]3年︵[[975年]]︶[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]し、[[貞元 (日本)|貞元]]2年︵[[977年]]︶侍従に任官する。[[永観]]2年︵[[984年]]︶従五位上・左兵衛権佐に叙任されると、[[寛和]]2年︵[[986年]]︶[[近衛府|左近衛権少将]]と[[花山天皇|花山朝]]から[[一条天皇|一条朝]]初頭にかけて武官を務め順調に昇進する。俊賢・[[源経房|経房]]兄弟の後見役に、当時の執政である[[藤原兼家]]がついていたと見られ<ref>久保木秀夫﹁枕草子における源経房﹂﹃語文﹄日本大学国文学会、1997年</ref>、この間の昇進に兼家の思惑・配慮を読みとることができる<ref name="tk15">高橋[1999: 15]</ref>。
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永延2年︵[[988年]]︶右少弁兼[[五位蔵人]]に転じると、[[永祚 (日本)|永祚]]2年︵[[990年]]︶[[正五位|正五位下]]・右中弁、正暦3年︵[[992年]]︶[[蔵人頭]]、正暦4年︵[[993年]]︶[[従四位|従四位下]]、正暦5年︵[[994年]]︶権左中弁と[[関白]]・[[藤原道隆]]の執政下で[[弁官]]を務めながら昇進を重ね、[[長徳]]元年︵[[995年]] |
永延2年︵[[988年]]︶右少弁兼[[五位蔵人]]に転じると、[[永祚 (日本)|永祚]]2年︵[[990年]]︶[[正五位|正五位下]]・右中弁、正暦3年︵[[992年]]︶[[蔵人頭]]、正暦4年︵[[993年]]︶[[従四位|従四位下]]、正暦5年︵[[994年]]︶権左中弁と[[関白]]・[[藤原道隆]]の執政下で[[弁官]]を務めながら昇進を重ね、[[長徳]]元年︵[[995年]]︶[[参議]]に任ぜられ公卿に列した。
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俊賢が蔵人頭になった際、本来は[[頭中将]]から[[参議]]に遷った[[藤原公任]]の後任を選ぶ人事で、既に[[頭弁]]として[[源扶義]]がいたこともあり、通常ならば従四位上・左近衛中将であった[[藤原斉信]]が適任であったところ<ref name="tk15" />、正五位下・右中弁の俊賢が任じられた。これにより、頭弁が2人になっただけでなく、五位ながら蔵人頭に任ぜられるという異例の抜擢︵朱雀朝以降は[[藤原師輔]]・[[藤原挙賢]]・[[藤原顕光]]・[[藤原道兼]]ら[[藤原北家]]嫡流の僅少例のみ︶であった。この背景には藤原道隆の恩遇があったとされ、俊賢が道隆に自己を推薦したという逸話がある<ref>﹃古事談﹄第二,臣節﹁俊賢、蔵人頭に自薦の事﹂</ref>{{refnest|group="注釈"|[[関口力]]は﹃西宮記﹄の著作動機の一つに俊賢への有職故実の継承にあるとする立場から、正暦4年に[[源重光]]邸の火災で焼失した﹃西宮記﹄を俊賢の旧蔵本と推定し、俊賢が蔵人頭に選ばれる際に道隆の嫡男・伊周に譲られ、火災当時伊周が住んでいた義父の源重光邸に保管されていたとする説を唱えている<ref>関口力﹃摂関時代文化史研究﹄︵思文閣出版、2007年︶ ISBN 978-4-7842-1344-3 P171-174</ref>。}}。俊賢はこの恩偶を忘れず、道隆の薨御や[[長徳の変]]を通じて[[中関白家]]が没落していく中でも同家に対して好意的に接した<ref>高橋[1999: 17]</ref>。
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俊賢が蔵人頭になった際、本来は[[頭中将]]から[[参議]]に遷った[[藤原公任]]の後任を選ぶ人事で、既に[[頭弁]]として[[源扶義]]がいたこともあり、通常ならば従四位上・左近衛中将であった[[藤原斉信]]が適任であったところ<ref name="tk15" />、正五位下・右中弁の俊賢が任じられた。これにより、頭弁が2人になっただけでなく、五位ながら蔵人頭に任ぜられるという異例の抜擢︵朱雀朝以降は[[藤原師輔]]・[[藤原挙賢]]・[[藤原顕光]]・[[藤原道兼]]ら[[藤原北家]]嫡流の僅少例のみ︶であった。この背景には藤原道隆の恩遇があったとされ、俊賢が道隆に自己を推薦したという逸話がある<ref>﹃古事談﹄第二,臣節﹁俊賢、蔵人頭に自薦の事﹂</ref>{{refnest|group="注釈"|[[関口力]]は﹃西宮記﹄の著作動機の一つに俊賢への有職故実の継承にあるとする立場から、正暦4年に[[源重光]]邸の火災で焼失した﹃西宮記﹄を俊賢の旧蔵本と推定し、俊賢が蔵人頭に選ばれる際に道隆の嫡男・伊周に譲られ、火災当時伊周が住んでいた義父の源重光邸に保管されていたとする説を唱えている<ref>関口力﹃摂関時代文化史研究﹄︵思文閣出版、2007年︶ ISBN 978-4-7842-1344-3 P171-174</ref>。}}。俊賢はこの恩偶を忘れず、道隆の薨御や[[長徳の変]]を通じて[[中関白家]]が没落していく中でも同家に対して好意的に接した<ref>高橋[1999: 17]</ref>。
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*長徳3年︵[[997年]]︶4月の伊周・隆家兄弟に対して[[恩赦]]・召還することの詮議において、俊賢は[[藤原実資]]・[[藤原公任]]・[[平惟仲]]とともに﹁罪は恩詔を潤すべし。﹃犯八虐を免す﹄の文に依る。但し召し上ぐる事に至りては、只、勅定在り。左右、定め申し難し﹂と最も温厚な意見を採った︵﹃小右記﹄︶<ref>﹃小右記﹄長徳3年4月5日条</ref>。
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*長徳3年︵[[997年]]︶4月の伊周・隆家兄弟に対して[[恩赦]]・召還することの詮議において、俊賢は[[藤原実資]]・[[藤原公任]]・[[平惟仲]]とともに﹁罪は恩詔を潤すべし。﹃犯八虐を免す﹄の文に依る。但し召し上ぐる事に至りては、只、勅定在り。左右、定め申し難し﹂と最も温厚な意見を採った︵﹃小右記﹄︶<ref>﹃小右記﹄長徳3年4月5日条</ref>。
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一方で、長徳の変を経て執政の座は藤原道長に遷るが、俊賢は中関白家との繋がりを保ちながらも、義兄弟にも当たる道長への協力も怠らないという平衡感覚のよさを発揮する<ref>高橋[1999: 18]</ref>。 |
一方で、長徳の変を経て執政の座は藤原道長に遷るが、俊賢は中関白家との繋がりを保ちながらも、妹・[[源明子]]の夫で義兄弟にも当たる道長への協力も怠らないという平衡感覚のよさを発揮する<ref>高橋[1999: 18]</ref>。 |
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*長徳2年(996年)8月の道長主催の[[藤原有国|藤原在国]][[大宰府|大宰大弐]]赴任の[[餞]]において、夕刻に行われた和歌会へ参加(『小右記』)<ref>『小右記』長徳2年8月7日条</ref>。 |
*長徳2年(996年)8月の道長主催の[[藤原有国|藤原在国]][[大宰府|大宰大弐]]赴任の[[餞]]において、夕刻に行われた和歌会へ参加(『小右記』)<ref>『小右記』長徳2年8月7日条</ref>。 |
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*[[長保]]元年([[999年]])2月の道長・[[源倫子|倫子]]夫妻の[[春日詣]]に従う(『御堂関白記』)<ref>『御堂関白記』長保元年2月27日条</ref> |
*[[長保]]元年([[999年]])2月の道長・[[源倫子|倫子]]夫妻の[[春日詣]]に従う(『御堂関白記』)<ref>『御堂関白記』長保元年2月27日条</ref> |
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*[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]]) 8月30日:右中弁。9月30日:[[正五位|正五位下]](造宮行事) |
*[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]]) 8月30日:右中弁。9月30日:[[正五位|正五位下]](造宮行事) |
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*[[正暦]]2年([[991年]]) 4月26日:太皇太后宮権亮([[太皇太后]]・[[昌子内親王]]) |
*[[正暦]]2年([[991年]]) 4月26日:太皇太后宮権亮([[太皇太后]]・[[昌子内親王]]) |
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*正暦3年([[992年]]) 8月28日:[[蔵人頭]] |
*正暦3年([[992年]]) 8月28日:[[蔵人頭]] |
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*正暦4年([[993年]]) 正月7日:[[従四位|従四位下]] |
*正暦4年([[993年]]) 正月7日:[[従四位|従四位下]] |
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*正暦5年([[994年]]) 9月8日:権左中弁、右兵衛督 |
*正暦5年([[994年]]) 9月8日:権左中弁、右兵衛督 |