「物部長鉾」の版間の差分
加筆・調整 |
公職追放について記載・調整 |
||
(11人の利用者による、間の19版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 軍人 |
|||
⚫ | |||
| 氏名 = 物部 長鉾 |
|||
| 各国語表記 = |
|||
| 生年月日 = [[1892年]][[12月26日]] |
|||
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1892|12|26|1967|2|26}} |
|||
| 画像 = |
|||
| 画像サイズ = |
|||
| 画像説明 = |
|||
| 渾名 = |
|||
| 生誕地 = {{JPN}} [[秋田県]] |
|||
| 死没地 = |
|||
| 所属組織 = [[日本陸軍]] |
|||
| 軍歴 = 1914 - 1945 |
|||
| 最終階級 = 陸軍[[中将]] |
|||
| 除隊後 = |
|||
| 墓所 = |
|||
| 署名 = |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
==経歴== |
==経歴== |
||
[[秋田県]]出身。[[出羽]][[物部氏]]の家系である[[唐松神社]]の生まれ。 |
[[秋田県]]出身。[[出羽]][[物部氏]]の家系である[[唐松神社]]の生まれ。 |
||
[[1914年]]︵大正3年︶5月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]︵26期︶を卒業し、同年12月、陸軍[[輜重兵]][[少尉]]任官。[[1921年]]︵大正10年︶11月、[[陸軍大学校]]︵33期︶を卒業した。
|
|||
[[1934年]]︵昭和9年︶8月、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員兼陸大教官に就任。[[1937年]]︵昭和12年︶10月、中支那碇泊場監部[[参謀]]に就任し[[日中戦争]]に出征。同年11月、輜重兵[[大佐]]に昇進。[[1938年]]︵昭和13年︶2月、[[中支那派遣軍]][[兵站]]参謀となり、[[1940年]]︵昭和15年︶8月、陸軍[[少将]]に進級し第11野戦輸送[[司令官]]に就任。
|
|||
[[1941年]]︵昭和16年︶10月、[[陸軍輜重兵学校]]長に異動。[[1942年]]︵昭和17年︶7月、[[船舶司令部|船舶参謀長]]に発令され[[太平洋戦争]]に出征。[[1943年]]︵昭和18年︶2月、[[船舶司令部|船舶練習部長]]に転じ、さらに[[船舶司令部|船舶兵団長]]に移り、同年10月、陸軍中将に進む。[[1944年]]︵昭和19年︶4月、[[輜重兵監]]に就任し、[[近衛師団|留守近衛第2師団]]長に異動。
|
|||
[[1945年]]︵昭和20年︶4月1日に[[第140師団 (日本軍)|第140師団]]長となり、[[鎌倉市|鎌倉]]で対着上陸作戦準備中に終戦を迎えた。[[1947年]]︵昭和22年︶11月28日、[[公職追放]]仮指定を受けた<ref>総理庁官房監査課編﹃公職追放に関する覚書該当者名簿﹄日比谷政経会、1949年、﹁昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者﹂84頁。</ref>。
|
|||
[[1948年]](昭和23年)7月、南方から[[捕虜]]を輸送した際の[[虐待]](いわゆる[[ヘルシップ|地獄船]])に関与した容疑で逮捕、[[B級戦犯]]として裁判にかけられた<ref>「地獄船でB級公判」『朝日新聞』昭和28年7月28日.2面</ref>。 |
|||
== 親族 == |
== 親族 == |
||
* 兄 [[物部長穂]]([[工学博士]])<ref name="ji">[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-22360 物部長穗 (男性)」]人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月]([[名古屋大学大学院法学研究科]])</ref> |
|||
* 兄 [[物部長穂]]([[博士 (工学)|工学博士]]) |
|||
* 弟 [[物部長照]]([[唐松神社]]名誉宮司)<ref name="ji"/> |
|||
== |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
* [[陸軍船舶兵]] |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
22行目: | 44行目: | ||
* 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 |
* 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 |
||
== 関連項目 == |
|||
⚫ | |||
[[ |
* [[陸軍船舶兵]] |
||
⚫ | |||
[[Category:大日本帝国陸軍中将]] |
|||
[[Category:太平洋戦争の人物]] |
|||
[[Category:公職追放者]] |
|||
[[Category:陸軍大学校の教員]] |
|||
[[Category:陸軍大学校出身の人物]] |
|||
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] |
|||
[[Category:秋田県出身の人物]] |
[[Category:秋田県出身の人物]] |
||
[[Category:1892年生]] |
[[Category:1892年生]] |
2024年6月7日 (金) 16:09時点における最新版
物部 長鉾 | |
---|---|
生誕 |
1892年12月26日![]() |
死没 | 1967年2月26日(74歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1914 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴[編集]
秋田県出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれ。 1914年︵大正3年︶5月、陸軍士官学校︵26期︶を卒業し、同年12月、陸軍輜重兵少尉任官。1921年︵大正10年︶11月、陸軍大学校︵33期︶を卒業した。 1934年︵昭和9年︶8月、参謀本部員兼陸大教官に就任。1937年︵昭和12年︶10月、中支那碇泊場監部参謀に就任し日中戦争に出征。同年11月、輜重兵大佐に昇進。1938年︵昭和13年︶2月、中支那派遣軍兵站参謀となり、1940年︵昭和15年︶8月、陸軍少将に進級し第11野戦輸送司令官に就任。 1941年︵昭和16年︶10月、陸軍輜重兵学校長に異動。1942年︵昭和17年︶7月、船舶参謀長に発令され太平洋戦争に出征。1943年︵昭和18年︶2月、船舶練習部長に転じ、さらに船舶兵団長に移り、同年10月、陸軍中将に進む。1944年︵昭和19年︶4月、輜重兵監に就任し、留守近衛第2師団長に異動。 1945年︵昭和20年︶4月1日に第140師団長となり、鎌倉で対着上陸作戦準備中に終戦を迎えた。1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 1948年︵昭和23年︶7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待︵いわゆる地獄船︶に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[2]。親族[編集]
脚注[編集]
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
- ^ 「地獄船でB級公判」『朝日新聞』昭和28年7月28日.2面
- ^ a b 物部長穗 (男性)」人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科)
参考文献[編集]
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。