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'''猪俣津南雄'''(いのまた つなお、[[明治]]22年([[1889年]])[[4月23日]] - [[昭和]]17年([[1942年]])[[1月19日]])は、[[日本]]の[[経済学者]]。[[マルクス経済学]][[労農派]]の論客の一人。 |
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[[新潟県]][[新潟市]]生まれ。[[新潟県立長岡高等学校|長岡中学]]、[[早稲田大学]]専門部卒業。1915年に渡米、[[ウィスコンシン大学]]などに留学。帰国後、早稲田大学講師。翌年結成された[[日本共産党]]に入党するが、検挙され、早大も辞職。再建後の共産党には、見解の相違から入党しなかった。後に[[日本大衆党]]に入党するが、[[山川均]]らと対立して除名される。
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[[新潟県]][[新潟市]]生まれ。[[新潟県立長岡高等学校|長岡中学]]、[[早稲田大学]]専門部卒業。1915年に渡米、[[ウィスコンシン大学]]などに留学。帰国後、早稲田大学講師。翌年結成された[[日本共産党]]に入党するが、検挙され、早大も辞職。再建後の共産党には、見解の相違から入党しなかった。後に[[日本大衆党]]に入党するが、[[山川均]]らと対立して除名される。
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2008年7月15日 (火) 14:22時点における版
猪俣津南雄︵いのまた つなお、明治22年︵1889年︶4月23日 - 昭和17年︵1942年︶1月19日︶は、日本の経済学者。マルクス経済学労農派の論客の一人。
新潟県新潟市生まれ。長岡中学、早稲田大学専門部卒業。1915年に渡米、ウィスコンシン大学などに留学。帰国後、早稲田大学講師。翌年結成された日本共産党に入党するが、検挙され、早大も辞職。再建後の共産党には、見解の相違から入党しなかった。後に日本大衆党に入党するが、山川均らと対立して除名される。
在野の学者として、農業問題を中心に論文を発表し続ける。
人民戦線事件で検挙されるが、腎臓炎悪化のため執行停止。1942年に死去。