田村直臣
表示
田村 直臣︵たむら なおおみ、1858年8月9日‐1934年1月7日︶は、日本の牧師。
植村正久、内村鑑三、松村介石と共にキリスト教界の四村と呼ばれた。
生涯
与力の三男として生まれる。海軍兵学校から亀井塾に転塾。結城英語塾、築地大学校で学ぶ。1874年10月18日洗礼を受けた。東京一致神学校を卒業。1874年12月24日日本基督一致教会で牧師按手を受け、銀座教会牧師となる。 1887年日本基督教会数寄屋橋教会牧師となるが、﹃日本の花嫁﹄事件により、牧師を免職となる。 1892年に田村は﹁仏教の影響下の家庭とキリスト教の影響下の家庭を比較﹂するため著書﹃日本の花嫁﹄を出版した。田村直臣牧師は、﹁私の持論なる男女同権論を主張し、日本の風俗習慣を破壊し、新日本に於いて、新ホームを作るの必要を高調し、キリスト教の力でなくては、男女の貞潔を守る事も出来ず、婦人の地位を高めることの出来ないことも極論した。﹂ 1893年植村正久は﹃福音新報﹄127号で田村牧師を激しく批判した。 ﹁﹃日本の花嫁﹄は記して曰く、我らは愛と禽獣的の情欲とを同一視す。曰く、わが人民は清潔なる愛を味わい知らず。曰く、日本にては、父親は無限独裁の君主なり。万権これに属す。曰く、親は児女の婚嫁のみに熱心して、その将来の幸福繁栄を慮ることなし云々。この類枚挙するにあらざるなり。これ真実に日本の社会を写し出せるものに非ざるなり。﹂ ﹁今、田村氏は上文のごとき奇怪なる文字を弄して、同胞を外国に誹れり。我輩は氏のために深くこれを愧じ、またこれを悲しまんずばあらざるなり、よし真実なることにもせよ、自国の事は一々これを外国に告ぐるの必要なし。或意はこれを隠蔽するの義務あり。況や虚妄の記事を列ねて自国の恥辱を海外に風潮するや。我輩この種類に属する著書の軽薄を爪弾きす。﹂ 10月に日本基督教会の中会は、井深梶之助、山本秀煌、熊野雄七の訴えにより、﹁同胞讒誣罪(どうほうざんぶざい)﹂で田村直臣を譴責。教会法廷の判決を不服とする田村牧師は大会に上告し、異端でないのだから教会法廷は不当であると主張した[1]。 1894年第9回日本基督教会大会で植村は、﹁此の問題に就ては最早多言するを要しない。先刻以来彼が自己を弁護する其の態度を見れば分る。此の如き人を我が日本基督教会の教職として認むるべきか何うか、是また自づから分明である。﹂と述べた。大会では中会よりさらに罪状と処分が重くなり、大会は﹁日本国民を侮辱したるもの﹂として、田村直臣を牧師から免職した。﹁教職を免ず﹂とする判決を下した、教会法廷の判決文は次の通り。﹁そもそもこの著書は国民の面目を犠牲となして金銭を博したるものにして即ち同胞を海外に侮辱しみだりに本邦人の名誉を毀損せる者なり﹂。 井深梶之助は、﹁物には内外の別あるもの也然れども花嫁著者は日本国民の恥辱となるべき事を外国語を以って外国に於いて著述したり﹂と述べ、押川方義は﹁我が祖先が遺したる高潔なる親子間の道徳を誣て海外に恥しむる﹂と言った。無教会主義の内村鑑三は判決に満足の意を表明して﹁宗教は国家観念のうえに立つものなることは余輩の充分是認するところなり。されども国家の名誉を犠牲に供し、国家を辱めて伝布する宗教は邪道なり﹂[2]、と言った。[3][4][5][6] 田村牧師と牧会する数寄屋橋教会は、日本基督教会から分離し、免職後も日本基督教会以外からは牧師と認められていた。経営する田村塾から山田耕作が育った。 田中正造の足尾鉱毒事件に協力していたが、会社側のクリスチャンから説明を聞き、また運動が政治色を帯びるにつれて、ここから離れた。[7] 1925年1月8日に植村正久牧師が天に召され、その翌年の1926年に、日本基督教会への復帰が認められた。脚注
- ^ 日本基督教会は緩やかな長老制をとっており、中会の判決に不服があるときは、大会に上告することができた
- ^ 『内村鑑三信仰著作全集』24 p.55
- ^ 『キリスト者であることと日本人であること』p.175
- ^ 『日韓教会成長比較』p.111
- ^ 『日本プロテスタント教会史』p.142
- ^ 『井深梶乃助とその時代』2巻 p.366-390に議事録
- ^ 田村らは改善されたと考えたが、実際には21世紀に入ってからも足尾鉱毒問題は終結していない。
著書
- 『信仰五十年史』田村直臣自伝 大空社
- 『我が見たる植村正久と内村鑑三』1932年