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阿久留はやがて畔蒜郡として誕生するが、これは大和朝廷の蝦夷懐柔策の一環であったことは記すまでもない。蝦夷俘囚の戦法は(騎馬戦、武器類)はそのまま坂東平氏にうけつがれることになる。中央からの命令に従わず最期まで抵抗した上総蝦夷の英雄アクルと、坂東を独立させ自らを新皇と称した平将門が同一視され久留里城(雨城、甘木)伝説は生まれたのだろう。 |
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阿久留はやがて畔蒜郡として誕生するが、これは大和朝廷の蝦夷懐柔策の一環であったことは記すまでもない。蝦夷俘囚の戦法は(騎馬戦、武器類)はそのまま坂東平氏にうけつがれることになる。中央からの命令に従わず最期まで抵抗した上総蝦夷の英雄アクルと、坂東を独立させ自らを新皇と称した平将門が同一視され久留里城(雨城、甘木)伝説は生まれたのだろう。 |
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下郡郡支庁跡は、圏央道木更津東インター付近とされる。 |
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下郡郡支庁跡は、[[圏央道]][[木更津東インターチェンジ]]付近とされる。 |
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==関連項目== |
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2007年12月10日 (月) 06:25時点における版
畔蒜郡︵あひるぐん︶は上総国にかつて存在した郡である。小櫃川の上流域にあたる。のちに望陀郡の一部となった。
詳細
和名抄に存在する古代の上総の郡名である。上総の下郡に郡支庁があったとされる。
畔蒜氏の正確な出自は不明であるが、古代上総地方の豪族らしい。畔蒜郡は、上総にあったとされるが、文献︵房総史料︶によれば印旛郡の東と地域を指定し畔蒜村の存在を指摘していることなどから下総地方にも郡が存在していたものと推定される。全盛期は平安時代であるが、下総板碑の時代考証から鎌倉期に安蒜として北総地域に分散した氏族であろう。
平安時代、小櫃川流域から久留里の奥地にわたる地域はかつて畔蒜荘と呼ばれた。日本霊異記に見られる記述などからも下総の畔蒜郡の位置は今日の山武郡の内陸部と想定される。かつてこの地は平家の棟梁、高望王が親王としてその居館を構えた地でもあったとされる。畔蒜氏を千葉家の末流という説は誤りで古代にすでに平家と接触していたとみるべきであろう。家紋が備前蝶であることや、官位を授与されていることなどからも荘官(郡司︶として平家の本流に組していたであろうと推察される。鎌倉時代に源氏の攻勢を受け幕府成立直前に荘園を熊野に寄進し懐柔策をとるも次第に平家の北上に伴い消滅していく。其のころ安蒜氏を名乗り北総地域に落ち延びたというのが妥当であろう。
畔蒜氏の出自に関しては古代アヒル王との関連を無視できない。アクル王伝説という表記は誤りで、阿久留は古代日本言語学上アヒルの発音は困難などの理由で︵ピンインで阿久留はアヒルに近い、︶後年、壬申の乱以降の阿比留、畔蒜︵アビル︶は表音文字に過ぎない。白山神社、久留里、小櫃など、地名はの多くは北方騎馬民族系を想起させる。東北アテルイの原型ともいえる。千葉上総、下総は出雲族が割拠しており、鹿野山はタタラ鉄の産地であったことや、白山社の祭神、茅野地区で明治期まで行われてきた三替わりの儀式などの事実から大和朝廷に反逆する民として滅ぼされた氏族であろう。刀伊の乱で活躍した阿比留氏は防人として九州の甘木に土着し女真族との交渉、戦闘の前線にいたと思われる。対馬阿比留氏の出自は対馬では上総と伝承される。
アヒル王はタタリを恐れられ後グンダリ明王として祭られた︵神野寺︶とあるが、その本体は保比留の地名から意富比が妥当であり(飯富神社はさまざま呼称あり。オブと呼ばれる。︶大日霊、すなわち天照意保比留売貴命︵浜松市︶大和後軍が大和先遣武隊を抹殺してしまうという矛盾(アマテルがエミシと合体?︶の隠蔽が記紀編者によって巧みに行われた証でもありうる。大和東征の恣意性を窺わせる。そこで畔に蒜、畔に蛭なのだろう。
さて、阿比留郡内には何故か平将門や源義朝の足跡もみられるなど、往古の時代からその神話性をから漂わせていたようである。畔蒜郡、畔蒜庄という呼び名は戦国期まで通用した。今日の君津市。久留里城は別名、雨城ともいわれ高台のため霧雨が敵から防御の役割をなしたとあるが実は畔蒜郡内の郷名のひとつ甘木であり、これは九州の甘木伝説、羽白熊鷲と重ねられたとみるべきであろう。畔戸︵袖ヶ浦︶も名草戸畔の逆字であるとみうけられるなど、古代この君津市を中心に製鉄の支配権をめぐって大規模な戦闘が大和政権側と繰り広げられたことが窺い知れる。
戦闘の詳細については上総国誌の通りなので詳述をさけるが征討軍の中心は大伴、物部で構成されたと思われ彼らは次第に国造としての地位基盤を築いていくことになる。騎馬も白兵戦も得手とする蝦夷には苦戦させられたに違いない。蝦夷本隊は殲滅できたようだが、多くは地下に潜ったことが伝説からもわかる︵怒田︶予想に違わず以降、平安期まで上総では俘囚の反乱が続き強制移住などの手段を講じなければ対処できなかったとされる。金村失脚以降、畿内から消えた︵記紀に見えない︶大伴氏は壬申の乱で馬来田、吹負兄弟の時日の目をみるがさした恩賞もない︵大納言の飾り︶ことなどからこうした下地が縁者ともされる鎌足の産湯伝説と結びつくのは当然に思える。両兄弟は書紀編者の太安万侶の叔父に当たる。大友皇子東下りも阿久留王を慕う庶民の思いや大伴氏、蘇我氏没落と無縁ではあるまい。
阿久留はやがて畔蒜郡として誕生するが、これは大和朝廷の蝦夷懐柔策の一環であったことは記すまでもない。蝦夷俘囚の戦法は︵騎馬戦、武器類︶はそのまま坂東平氏にうけつがれることになる。中央からの命令に従わず最期まで抵抗した上総蝦夷の英雄アクルと、坂東を独立させ自らを新皇と称した平将門が同一視され久留里城︵雨城、甘木︶伝説は生まれたのだろう。
下郡郡支庁跡は、圏央道木更津東インターチェンジ付近とされる。
関連項目
消滅した郡の一覧