畔蒜郡
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畔蒜郡︵あひるぐん︶は上総国にかつて存在した郡である。小櫃川の上流域にあたる。のちに望陀郡の一部となった。
古代関東一円は高句麗の影響下にあったことは既に歴史考古学の常識だが︵縄文人と弥生人の考古学的資料からも頷ける︶問題は日本社会の持つ特性︵二重二面構造の深層心理︶に絡み合い複雑化しているので部外者︵外国人研究者︶の提出する客観的事実や科学的精査︵日本人のDNA︶のデーターなどを受け入れるような寛容性が待たれる。高句麗はgao-ju-liu,阿久留はaa-jiu-liu,久久留はjiu-jiu-liu,jiu-liuは古代日本人には阿弖流為で示したようにテル︵照︶に聴こえたはずである。耳を疑うような話だが久留︵共通項︶を重視していたことからテル︵通称︶と呼ばれていた集団が全国的に居た可能性があることを示唆している。︵現代ピンインが古代に通用するのかともいわれるが筆者は充分通用するとみている。︶
さらに阿伎留神社︵神代文字︶の阿伎留(aa-ji-liu)も阿久留と同じ発音である事などから同族と見うけられ、対馬ー阿麻弖利神社のアヒル文字と連鎖してくるのだ。こうした話は今まで明るみになっていない伝説の領域を紐解く作業だがピンインを用いれば容易だとはいえメジャーにはなり得ないだろう。記紀が百済ー新羅対立の中で作成され以前に文字は無かったという記紀の記述をまともに受け入れ教育されてきた過去がある。実に日本人のアイデンティーの欠如もここに由来する。畔蒜は古代高句麗王に由来する製鉄部族の末裔と推測されるが、その解明は古代日本の成り立ちや構造を知る上で歴史資料的価値は高い。
畔蒜郡はいつ成立したのか。この問いに明確に応えることはできない。壬申の乱当初、大伴吹負は飛鳥に少数の手勢と馬来田も畿内に、上総には不穏な動きはみえず、軍の駐留で比較的治安は安定していたように思える。前述の房総史料の筆者が何の文献を見聞していたかにもよるだろう。︵畔蒜村、此れ往古の畔蒜郡の跡と記している︶郡の規模からみてあきらかに上総の畔蒜郡ではない。︵徒歩で散策したらしい︶郡の消滅は異例なことといってもいい。桓武政策︵移配か︶による影響は必至であろうが九州の防人に送られた可能性も否めない。とすると大宝元年に既に成立を見、延暦のころ廃郡とされたのではないのかのと推測できる。︵対馬阿比留氏は蘇我宿禰に出自を置くが神野寺建立が深く係わる。蘇我と保比留の関係は良好だったと観られる︶ 古代上総の伝説を蝦夷に深くかかわっているであろう畔蒜郡について、記紀また大陸の情勢︵皇国史観︶などを考慮しながら参考までに記してみた。異論はあることは充分承知の上是非とも後学に期待を寄せたい。
下郡郡支庁跡は、圏央道木更津東インターチェンジ付近とされる。
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和名抄に存在する古代の上総の郡名である。上総の下郡に郡支庁があったとされる。 畔蒜氏の正確な出自は不明であるが、古代上総地方の豪族らしい。畔蒜郡は、上総にあったとされるが、文献︵房総史料︶によれば印旛郡の東と地域を指定し畔蒜村の存在を指摘していることなどから下総地方にも郡が存在していたものと推定される。全盛期は平安時代であるが、下総板碑の時代考証から鎌倉期に安蒜として北総地域に分散した氏族であろう。 平安時代、小櫃川流域から久留里の奥地にわたる地域はかつて畔蒜荘と呼ばれた。日本霊異記に見られる記述などからも下総の畔蒜郡の位置は今日の山武郡の内陸部と想定される。かつてこの地は平家の棟梁、高望王が親王としてその居館を構えた地でもあったとされる。畔蒜氏を千葉家の末流という説は誤りで古代にすでに平家と接触していたとみるべきであろう。家紋が備前蝶であることや、官位を授与されていることなどからも荘官(郡司︶として平家の本流に組していたであろうと推察される。鎌倉時代に源氏の攻勢を受け幕府成立直前に荘園を熊野に寄進し懐柔策をとるも次第に平家の北上に伴い消滅していく。其のころ安蒜氏を名乗り北総地域に落ち延びたというのが妥当であろう。 畔蒜氏の出自に関しては古代アヒル王との関連を無視できない。アクル王伝説という表記は誤りで、阿久留は古代日本言語学上アヒルの発音は困難などの理由で︵ピンインで阿久留はアヒルに近い、︶後年、壬申の乱以降の阿比留、畔蒜︵アビル︶は表音文字に過ぎない。白山神社、久留里、小櫃など、地名はの多くは北方騎馬民族系を想起させる。東北アテルイの原型ともいえる。千葉上総、下総は出雲族が割拠しており、鹿野山はタタラ鉄の産地であったことや、白山社の祭神、茅野地区で明治期まで行われてきた三替わりの儀式などの事実から大和朝廷に反逆する民として滅ぼされた氏族であろう。刀伊の乱で活躍した阿比留氏は防人として九州の甘木に土着し女真族との交渉、戦闘の前線にいたと思われる。対馬阿比留氏の出自は対馬では上総と伝承される。 アヒル王はタタリを恐れられ後グンダリ明王として祭られた︵神野寺︶とあるが、その本体は保比留の地名から意富比が妥当であり(飯富神社はさまざま呼称あり。オブと呼ばれる。︶大日霊、すなわち天照意保比留売貴命︵浜松市︶大和後軍が大和先遣武隊を抹殺してしまうという矛盾(アマテルがエミシと合体?書紀によると神武は都入りし先住民と対面しているがその相手の意味するところはさまざま説があって的を得ない。書紀は此処から蝦夷の始まりを伝えはじめたとみてよい。同属とする説もある︶の隠蔽が記紀編者によって巧みに行われた証でもありうる。大和東征の恣意性を窺わせる。そこで畔に蒜、畔に蛭なのだろう。 さて、阿比留郡内には何故か平将門や源義朝の足跡もみられるなど、往古の時代からその神話性をから漂わせていたようである。畔蒜郡、畔蒜庄という呼び名は戦国期まで通用した。今日の君津市。久留里城は別名、雨城ともいわれ高台のため霧雨が敵から防御の役割をなしたとあるが実は畔蒜郡内の郷名のひとつ甘木であり、これは九州の甘木伝説、羽白熊鷲と重ねられたとみるべきであろう。畔戸︵袖ヶ浦︶も名草戸畔の逆字であるとみうけられるなど、古代この君津市を中心に製鉄の支配権をめぐって大規模な戦闘が大和政権側と繰り広げられたことが窺い知れる。 戦闘の詳細については上総国誌の通りなので詳述をさけるが征討軍の中心は大伴、物部で構成されたと思われ彼らは次第に国造としての地位基盤を築いていくことになる。騎馬も白兵戦も得手とする蝦夷には苦戦させられたに違いない。蝦夷本隊は殲滅できたようだが、多くは地下に潜ったことが伝説からもわかる︵怒田︶予想に違わず以降、平安期まで上総では俘囚の反乱が続き強制移住などの手段を講じなければ対処できなかったとされる。金村失脚以降、畿内から消えた︵記紀に見えない︶大伴氏は壬申の乱で馬来田、吹負兄弟の時日の目をみるがさした恩賞もない︵大納言の飾り︶ことなどからこうした下地が縁者ともされる鎌足の産湯伝説と結びつくのは当然に思える。両兄弟は書紀編者の太安万侶の叔父に当たる。大友皇子東下りも阿久留王を慕う庶民の思いや大伴氏、蘇我氏没落と無縁ではあるまい。 阿久留はやがて畔蒜郡として誕生するが、これは大和朝廷の蝦夷懐柔策の一環であったことは記すまでもない。蝦夷俘囚の戦法は︵騎馬戦、武器類︶はそのまま坂東平氏にうけつがれることになる。中央からの命令に従わず最期まで抵抗した上総蝦夷の英雄アクルと、坂東を独立させ自らを新皇と称した平将門が同一視され久留里城︵雨城、甘木︶伝説は生まれたのだろう。 書紀によれば斉明天皇5年、阿倍比羅夫に投降した蝦夷の一人に﹁少領、青蒜、小乙下﹂を授けたとあり蝦夷から朝廷に本領安堵を願いでて︵畿内に赴いて︶許可を受ける慣習が飛鳥時代から既に行われていたことがわかる。︵郡司クラスを乱発して最終的に国司に従属︶此処にも既に﹁蒜﹂の文字は見えている。桓武時代、坂上田村麻呂と互角の戦闘を繰り広げながら刑場の露として消えていった東北蝦夷の英雄、アテルイもその一環であろう。︵正体は不明、オロチ族ともミシハセとも︶ 蝦夷軍の総帥アテルイの報告は紀古佐美によってはじめて報告されるが以前の征夷軍のもたらす蝦夷軍棟梁のリストにはその名は挙がっておらずまさしく彗星の如き出現といってもいいだろう。大墓公アテルイの出現は東北蝦夷全軍に勇気を与えたに違いない。吾妻鏡の悪路は後代に混乱の渦を巻く基になるものであってこのケースに限っては紀略のほうが史実を的確に伝えている。 アテルイは自らを阿久留︵アクロ王︶と称したのであって好んで悪路王を標榜した訳ではない。悪路王︵表意化︶の表記は古代日本の蝦夷征伐に関わる大和朝廷側の意図を指し示すものであることに疑いの余地はない。阿久留王は︵aa-jiu-liu-wang)の発音であるが、これは阿弖流為あるいは阿弖利為の音がピンインそれ自体を指し示している。紀略はできる限り正確な音を伝えていると見てよい。︵実際はjiuはイントネーションがありtiに聴こえ更にそれがdi-bi変換することは容易に察せられる。wangのngの発音は聴きとれずwaは鼻母音化する︶するとどのようにきこえるか実際に発音してみるといい。アチィルウェが最も近いと言えようか。阿弖利為=阿久留王の可能性もみえてこよう。これを大和政権側からみた場合、当然のこと記紀に反することは認められないことになる。記紀にはヤマトタケル、大伴、吉備編成軍が征したと記録されてしまっているからに他ならない。伝説の房総蝦夷の王︵君津市、六手の鹿島台遺跡群︶阿久留に自らを比して語ることに躊躇はなかったに違いないが後年悪路王と記され田村麻呂征夷ルートに出現する数多の悪路王︵悪郎とも、そこから倭路という先住民を指摘する説もある︶阿久留王だったと考えられるのである。漢字表記のみの分析︵表意化したものととらえ類推する古典的手法︶は正確な古代史を知る上で弊害にもなり得るので注意を要する一例である。多く、言われ伝説の類は何らかしらの意図があるとみてよい。︵一部、歴史言語学者が指摘しているにもかかわらずにである。︶ 保比留︵蔑称︶は意保比留と同一であり蒜は服属した蝦夷側の称である。意保比留︵意富比が︶朝日波加多神社の祭神アマテルに用いられるなど伊勢神道天照︵天孫族︶を示す︵天照蝦夷説=天照信仰が大和朝廷以前に古代先住民に既に浸透していたとする。︶傍証である。郷社格︵式内社どころではない︶でウブス信仰の形態をとるが明治に併合されている。近くの賀久留神社︵加久留川︶祭神に久久留姫︵白山社︶などは渡来系︵高句麗︶の集団が存在した証拠である。その道程は︵伊勢ー伊豆ー相模ー上総︵武蔵︶︶はヤマトタケル東征ルートと一致する。阿久留王とは何者か。古代関東一円は高句麗の影響下にあったことは既に歴史考古学の常識だが︵縄文人と弥生人の考古学的資料からも頷ける︶問題は日本社会の持つ特性︵二重二面構造の深層心理︶に絡み合い複雑化しているので部外者︵外国人研究者︶の提出する客観的事実や科学的精査︵日本人のDNA︶のデーターなどを受け入れるような寛容性が待たれる。高句麗はgao-ju-liu,阿久留はaa-jiu-liu,久久留はjiu-jiu-liu,jiu-liuは古代日本人には阿弖流為で示したようにテル︵照︶に聴こえたはずである。耳を疑うような話だが久留︵共通項︶を重視していたことからテル︵通称︶と呼ばれていた集団が全国的に居た可能性があることを示唆している。︵現代ピンインが古代に通用するのかともいわれるが筆者は充分通用するとみている。︶
さらに阿伎留神社︵神代文字︶の阿伎留(aa-ji-liu)も阿久留と同じ発音である事などから同族と見うけられ、対馬ー阿麻弖利神社のアヒル文字と連鎖してくるのだ。こうした話は今まで明るみになっていない伝説の領域を紐解く作業だがピンインを用いれば容易だとはいえメジャーにはなり得ないだろう。記紀が百済ー新羅対立の中で作成され以前に文字は無かったという記紀の記述をまともに受け入れ教育されてきた過去がある。実に日本人のアイデンティーの欠如もここに由来する。畔蒜は古代高句麗王に由来する製鉄部族の末裔と推測されるが、その解明は古代日本の成り立ちや構造を知る上で歴史資料的価値は高い。
畔蒜郡はいつ成立したのか。この問いに明確に応えることはできない。壬申の乱当初、大伴吹負は飛鳥に少数の手勢と馬来田も畿内に、上総には不穏な動きはみえず、軍の駐留で比較的治安は安定していたように思える。前述の房総史料の筆者が何の文献を見聞していたかにもよるだろう。︵畔蒜村、此れ往古の畔蒜郡の跡と記している︶郡の規模からみてあきらかに上総の畔蒜郡ではない。︵徒歩で散策したらしい︶郡の消滅は異例なことといってもいい。桓武政策︵移配か︶による影響は必至であろうが九州の防人に送られた可能性も否めない。とすると大宝元年に既に成立を見、延暦のころ廃郡とされたのではないのかのと推測できる。︵対馬阿比留氏は蘇我宿禰に出自を置くが神野寺建立が深く係わる。蘇我と保比留の関係は良好だったと観られる︶ 古代上総の伝説を蝦夷に深くかかわっているであろう畔蒜郡について、記紀また大陸の情勢︵皇国史観︶などを考慮しながら参考までに記してみた。異論はあることは充分承知の上是非とも後学に期待を寄せたい。
下郡郡支庁跡は、圏央道木更津東インターチェンジ付近とされる。