「白白教事件」の版間の差分
m →参考文献 |
m Category:京城府を追加 (HotCat使用) |
||
(15人の利用者による、間の18版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Keijo Nippo Extra Edition newspaper clipping (13 April 1937 issue) 01.jpg|thumb|350px|白白教事件を報じた京城日報の号外(1937年4月13日)]] |
|||
⚫ | '''白白教事件'''(はくはくきょうじけん) |
||
[[File:Keijo Nippo newspaper clipping (6 April 1940 issue).jpg|thumb|150px|白白教事件の判決を報じた京城日報の記事(1940年4月6日)]] |
|||
⚫ | '''白白教事件'''(はくはくきょうじけん)は、[[日本統治時代の朝鮮]]に存在した[[カルト]][[宗教団体|教団]]「[[白白教]]」によって314人が[[大量殺人]]された事件<ref name=joins20081229>{{cite news |
||
| url=http://japanese.joins.com/article/article.html?aid=109392&servcode=400§code=430 |
|||
| title=韓国の大型殺人事件 |
|||
| publisher=[[中央日報]] |
|||
| date=2008.12.29 |
|||
| accessdate=2010年6月3日 |
|||
}}</ref>。 |
|||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
=== 白白教の一斉検挙 === |
=== 白白教の一斉検挙 === |
||
1937年(昭和12年)2月16日夜、朝鮮[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]]下往十里町(現[[大韓民国]][[ソウル特別市]][[城東区 (ソウル特別市)|城東区]]下往十里洞)で、宗教絡みの乱闘騒ぎが起き、所轄の[[朝鮮総督府警察|京畿道警察部]]東大門警察署が関係者を取り調べたところ、以前に殺人事件を起こして自滅したカルト教団「白道教」が、新たに「白白教」として復活し、京城に根を下ろしている事が発覚した。 |
1937年︵昭和12年︶2月16日夜、朝鮮[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]]下往十里町︵現[[大韓民国]][[ソウル特別市]][[城東区 (ソウル特別市)|城東区]]下往十里洞︶で、宗教絡みの乱闘騒ぎが起き、所轄の[[朝鮮総督府警察|京畿道警察部]]東大門警察署が関係者を取り調べたところ、以前に殺人事件を起こして自滅したカルト教団﹁白道教﹂が、新たに﹁白白教﹂として復活し、京城に根を下ろしている事が発覚した。2月26日、日本政府によって白白教幹部約150人が検挙された<ref>{{Cite news|url=https://megalodon.jp/2009-0323-1929-57/japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/06/9000000000AJP20090206003800882.HTML |title=今日の歴史︵2月26日︶|publisher=聯合ニュース |date=2009-02-26}}</ref>。
|
||
東大門警察署は、翌2月17日に京城のアジトを急襲し、信者ら約80人を検挙したが、肝 |
東大門警察署は、翌2月17日に京城のアジトを急襲し、信者ら約80人を検挙したが、肝心の﹁第二世大元任﹂こと教祖の全龍海を取り逃がしてしまった。その後も、信者の検挙が相次いだが、全龍海は依然行方をくらませていた。
|
||
=== 大量殺人の発覚 === |
=== 大量殺人の発覚 === |
||
16行目: | 24行目: | ||
そしてR兄弟の供述通りに3人の遺体が発見され[[検死]]が行われた。その結果、﹁殺しの手際の良さ﹂などから、追い詰められた挙句の刹那的犯行ではなく、常日頃から常習的に殺人を繰り返していた疑いが強くなった。他の信者を追及したところ、次々と教祖の殺人を供述し始め、捜査官を慄然とさせた。
|
そしてR兄弟の供述通りに3人の遺体が発見され[[検死]]が行われた。その結果、﹁殺しの手際の良さ﹂などから、追い詰められた挙句の刹那的犯行ではなく、常日頃から常習的に殺人を繰り返していた疑いが強くなった。他の信者を追及したところ、次々と教祖の殺人を供述し始め、捜査官を慄然とさせた。
|
||
警察は山狩りを実施して、教祖の検挙に全力を尽くすとともに、被害者の遺体発掘が並行して行われた。判明している者だけでも309人が殺害された。 |
警察は山狩りを実施して、教祖の検挙に全力を尽くすとともに、被害者の遺体発掘が並行して行われた。判明している者だけでも309人(314人<ref name=joins20081229/>)が殺害された。 |
||
4月7日、全龍海の自殺死体が発見され、白白教は事実上壊滅した。4月13日に当局によって差し止められていた記事掲載が解禁となり、世間を震撼させた。
|
4月7日、全龍海の自殺死体が発見され、白白教は事実上壊滅した。4月13日に当局によって差し止められていた記事掲載が解禁となり、世間を震撼させた。
|
||
22行目: | 30行目: | ||
=== その後の裁判 === |
=== その後の裁判 === |
||
1940年(昭和15年)4月5日、京城地方法院は幹部ら12人に死刑、3人に無期懲役、9人に有期懲役を言い渡した。 |
1940年(昭和15年)4月5日、京城地方法院は幹部ら12人に死刑、3人に無期懲役、9人に有期懲役を言い渡した。 |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
<references /> |
|||
==参考文献== |
==参考文献== |
||
27行目: | 39行目: | ||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[白白教]] |
|||
* [[カルト]] |
|||
* [[大量殺人]] |
|||
* [[大量虐殺]] |
* [[大量虐殺]] |
||
* [[朝鮮総督府警察]] |
|||
{{DEFAULTSORT:はくはくきようしけん}} |
{{DEFAULTSORT:はくはくきようしけん}} |
||
[[Category:カルト |
[[Category:カルト事件]] |
||
[[Category:日本統治時代の朝鮮の事件]] |
[[Category:日本統治時代の朝鮮の事件]] |
||
[[Category: |
[[Category:朝鮮による大量虐殺]] |
||
[[Category: |
[[Category:1937年の朝鮮]] |
||
[[Category:京畿道の歴史]] |
|||
[[Category:京城府]] |
|||
[[Category:1937年2月]] |
|||
[[Category:1937年3月]] |
|||
[[Category:1937年4月]] |
2022年11月4日 (金) 11:07時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Keijo_Nippo_Extra_Edition_newspaper_clipping_%2813_April_1937_issue%29_01.jpg/350px-Keijo_Nippo_Extra_Edition_newspaper_clipping_%2813_April_1937_issue%29_01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Keijo_Nippo_newspaper_clipping_%286_April_1940_issue%29.jpg/150px-Keijo_Nippo_newspaper_clipping_%286_April_1940_issue%29.jpg)
概要[編集]
白白教の一斉検挙[編集]
1937年︵昭和12年︶2月16日夜、朝鮮京畿道京城府下往十里町︵現大韓民国ソウル特別市城東区下往十里洞︶で、宗教絡みの乱闘騒ぎが起き、所轄の京畿道警察部東大門警察署が関係者を取り調べたところ、以前に殺人事件を起こして自滅したカルト教団﹁白道教﹂が、新たに﹁白白教﹂として復活し、京城に根を下ろしている事が発覚した。2月26日、日本政府によって白白教幹部約150人が検挙された[2]。 東大門警察署は、翌2月17日に京城のアジトを急襲し、信者ら約80人を検挙したが、肝心の﹁第二世大元任﹂こと教祖の全龍海を取り逃がしてしまった。その後も、信者の検挙が相次いだが、全龍海は依然行方をくらませていた。大量殺人の発覚[編集]
続々と検挙された信者は教祖の居所について、何一つ話そうとせず黙秘を貫いた。教祖の秘書に至っては、検挙時に自殺を図り、京城帝国大学医学部附属病院に担ぎ込まれる始末であった。 3月6日、信者のR兄弟が観念し、教団が起こした殺人事件について語り始めた。 R兄弟の供述によると、﹁一斉検挙後の2月21日、京畿道楊平郡の自宅に全龍海が現れ、酒食の供応が命じられた。その際、全龍海は自分たち兄弟に預けられていた全龍海の妾3人を別室に呼び出して全員殺害した。その後、穴を掘らされて3人の遺体を埋めた。﹂という。 そしてR兄弟の供述通りに3人の遺体が発見され検死が行われた。その結果、﹁殺しの手際の良さ﹂などから、追い詰められた挙句の刹那的犯行ではなく、常日頃から常習的に殺人を繰り返していた疑いが強くなった。他の信者を追及したところ、次々と教祖の殺人を供述し始め、捜査官を慄然とさせた。 警察は山狩りを実施して、教祖の検挙に全力を尽くすとともに、被害者の遺体発掘が並行して行われた。判明している者だけでも309人︵314人[1]︶が殺害された。 4月7日、全龍海の自殺死体が発見され、白白教は事実上壊滅した。4月13日に当局によって差し止められていた記事掲載が解禁となり、世間を震撼させた。その後の裁判[編集]
1940年︵昭和15年︶4月5日、京城地方法院は幹部ら12人に死刑、3人に無期懲役、9人に有期懲役を言い渡した。脚注[編集]
- ^ a b “韓国の大型殺人事件”. 中央日報. (2008年12月29日) 2010年6月3日閲覧。
- ^ “今日の歴史(2月26日)”. 聯合ニュース. (2009年2月26日)
参考文献[編集]
- 『京城日報』1937年、1940年