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'''真田 信就'''︵さなだ のぶなり︶は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]。[[松代藩]]の第2代藩主・[[真田信政]]の長男。真田勘解由家の祖。母の小野図子︵宗鑑尼︶は信政の側室であり、[[小野お通]]の娘である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AE%97%E9%91%91%E5%B0%BC-1063882 小野宗鑑尼] - デジタル版日本人名大辞典+Plus - [[コトバンク]]</ref>。
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[[慶安]]元年︵[[1648年]]︶6月20日に将軍[[徳川家光]]に拝謁する。その後、事情により勘気をこうむるが、[[寛文]]5年︵[[1665年]]︶7月17日にそれを許され、同年12月25日に廩米2000俵を賜って[[旗本寄合席|寄合]]に列する。[[元禄]]7年︵[[1694年]]︶7月10日に致仕し、家督を子の[[真田信方|信方]]︵真田勘解由︶に譲った。元禄8年︵1695年︶11月26日死去。
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2023年4月8日 (土) 14:19時点における最新版
真田信就 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 元禄8年11月26日(1695年12月31日) |
別名 | 宇右衛門、勘解由(通称)、葉身(法名) |
墓所 | 下谷広徳寺、後に梅雲院 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 真田氏 |
父母 | 父:真田信政、母:小野図子 |
兄弟 | 信就、信守、信武、幸道 |
子 | 信方、高力長氏、高力定重、本多信里、本多信門、主馬、信弘、娘(丹羽正道妻) |
真田 信就︵さなだ のぶなり︶は、江戸時代中期の旗本。松代藩の第2代藩主・真田信政の長男。真田勘解由家の祖。母の小野図子︵宗鑑尼︶は信政の側室であり、小野お通の娘である[1]。
慶安元年︵1648年︶6月20日に将軍徳川家光に拝謁する。その後、事情により勘気をこうむるが、寛文5年︵1665年︶7月17日にそれを許され、同年12月25日に廩米2000俵を賜って寄合に列する。元禄7年︵1694年︶7月10日に致仕し、家督を子の信方︵真田勘解由︶に譲った。元禄8年︵1695年︶11月26日死去。
母は八橋検校から武家の子女のしつけとして、八橋流の箏曲を習得し、真田勘解由家に相伝された。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『寛政重修諸家譜 巻第655』
- 『断家譜』3