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'''秦 大魚'''︵はた の おおな、生没年不詳︶は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[氏姓]]は秦前忌寸のち秦忌寸。従七位下秦広庭の子<ref name="a">鈴木真年﹃諸系譜﹄第10冊,秦公姓︵宝賀寿男﹃古代氏族系譜集成﹄古代氏族研究会,1986年 による︶</ref>。子に首麻呂・真成がいる<ref name="a" />。官位は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・[[下野国|下野]][[国史|守]]。
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'''秦 大魚'''︵はた の おおな、[[生没年不詳]]︶は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[氏姓]]は秦前忌寸のち秦忌寸。従七位下秦広庭の子<ref name="a">鈴木真年﹃諸系譜﹄第10冊,秦公姓︵宝賀寿男﹃古代氏族系譜集成﹄古代氏族研究会,1986年 による︶</ref>。子に首麻呂・真成がいる<ref name="a" />。官位は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・[[下野国|下野]][[国史|守]]。
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[[天平]]2年︵[[730年]]︶[[従六位#従七位|従七位下]]・[[尾張国|尾張]]少目であったとの記録がある<ref>﹃尾張国正税帳﹄天平2年</ref>。[[天平]]12年︵[[740年]]︶[[正六位上]]から外従五位下に昇叙され<ref>﹃続日本紀﹄天平12年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]条</ref>、その後翌天平13年︵[[741年]]︶[[三河国|三河]]守、天平18年︵[[746年]]︶[[下野国|下野]]守と、地方官を歴任した。
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2015年5月15日 (金) 16:13時点における版
秦 大魚︵はた の おおな、生没年不詳︶は、奈良時代の貴族。氏姓は秦前忌寸のち秦忌寸。従七位下秦広庭の子[1]。子に首麻呂・真成がいる[1]。官位は外従五位下・下野守。
天平2年︵730年︶従七位下・尾張少目であったとの記録がある[2]。天平12年︵740年︶正六位上から外従五位下に昇叙され[3]、その後翌天平13年︵741年︶三河守、天平18年︵746年︶下野守と、地方官を歴任した。
万葉集にある壹岐宅麻呂︵雪連宅滿︶の母は大魚の娘といわれ、ともに九州北部地方を本拠地として東へと活動の範囲を広げていき、山城国松尾大社に氏神を祀った秦氏と、これに南接する地に壱岐の月読を祀った壱岐氏︵伊吉連︶の縁を窺い知るものである。
﹃続日本紀﹄の記述では、大魚の氏姓は三河守任官時は秦前︵忌寸︶[4]であるが、下野守任官の際は秦︵忌寸︶となっており、この間に改姓したものと考えられる。