三河国

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三河国

-三河国
-東海道
別称 三州・参州 (さんしゅう)
所属 東海道
相当領域 愛知県中・東部
諸元
国力 上国
距離 近国
8郡69郷
国内主要施設
三河国府 愛知県豊川市
三河国分寺 愛知県豊川市(三河国分寺跡
三河国分尼寺 愛知県豊川市(三河国分尼寺跡
一宮 砥鹿神社(愛知県豊川市)
テンプレートを表示

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7[2]-

8



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西


沿[]

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宿

6457[ 1][ 2]

西鹿[3]鹿

西

[4]鹿


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西

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西





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調1,494472,324
17797,321 - 西西西駿

18871,811 - 西駿

21152,502 - 西西

35367,538 - 西西

23030,175 - 

12458,041 - 西西

13767,810 - 

7427,124 - 

4
43186855 - 

4291868521 - 

691868728 - 

7 - 

91218681027 - 

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2
1 - 

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4
621871719 - 

7141871829 - 西西西

111518711226 - 1

5112718721227 - 

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府[編集]

三河国府跡(豊川市白鳥町)
白鳥遺跡。曹源寺境内、手前の空閑地に正庁が位置した。

国府の遺構は豊川市白鳥町上郷中・下郷中で見つかっている(北緯34度50分10.68秒 東経137度20分2.88秒 / 北緯34.8363000度 東経137.3341333度 / 34.8363000; 137.3341333 (三河国府跡))。総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定され、1991年平成3年)から1997年(平成9年)にかけて総社周辺の発掘調査が行われた結果、建物跡が見つかっている。加えて「国厨」の墨書土器が出土したことから、政庁と確認された。1999年(平成11年)3月には、豊川市八幡町で長さ100メートル以上、幅員22メートルの小石を敷き詰めて舗装した大道が発見されており、国府と国分寺をつなぐ道路遺構とみられている。

2024年(令和6年)2月21日に「三河国府跡」として国の史跡に指定されている[5]

国分寺・国分尼寺[編集]

三河国分寺(豊川市八幡町)
三河国分尼寺跡
(豊川市八幡町)

神社[編集]




2625



[6]

34509.73 1371959.67 / 34.8360361 137.3332417 / 34.8360361; 137.3332417 (三河国総社:総社) - 

鹿西345051.52 1372516.34 / 34.8476444 137.4212056 / 34.8476444; 137.4212056 (三河国一宮:砥鹿神社) - 鹿[7]

西35047.29 137228.00 / 35.0131361 137.0411111 / 35.0131361; 137.0411111 (三河国二宮:知立神社) - 

351031.02 1371038.86 / 35.1752833 137.1774611 / 35.1752833; 137.1774611 (三河国三宮:猿投神社) - 1662

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 (西)

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西西西[12]

西西

3,468.23km222調2,329,609[1]

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8

8

8

13

4

7

6

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三河国の藩の一覧[13]
藩名 居城 藩主
三河吉田藩 吉田城
西尾藩 西尾城
岡崎藩 岡崎城
刈谷藩 刈谷城
挙母藩 陣屋
桜城

陣屋
挙母城
大給藩
奥殿藩
大給陣屋
奥殿陣屋
  • 大給松平家:1万6千石、1684年 - 1863年(藩庁を飛び地の信濃佐久郡に移す)
田原藩 田原城
西端藩 西端陣屋
西大平藩 西大平陣屋
作手藩 亀山城
伊保藩 伊保陣屋
深溝藩 深溝城
三河中島藩 中島陣屋
  • 板倉重矩:1万石→2万石→4万石→5万石、1640年頃 - 1672年(下野烏山藩5万石に移封)
大浜藩 大浜陣屋
新城藩 新城城
足助藩 足助陣屋
  • 本多忠周:1万石、1683年 - 1689年(7,000石の旗本に)
形原藩 形原城
畑村藩
大垣藩支藩
畑村陣屋
  • 戸田家:1万石、1688年 - 1869年(美濃国大野郡野村に藩庁を移転)

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1335x

1540 - 1549 : x

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1548x

1563x

1571x

1573x

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三河地方のデータ
日本
地方 中部地方東海地方
面積 3,475.06km2
総人口 2,266,740
(2024年4月1日)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 他の史料で、東三河を穂国(穂の国)と呼称している事実はない。ただし『古事記』に「穂之別の祖・朝廷別王(みかどわけのみこ)」の記載があり、旧事本紀に登場する穂国造の美己止直(みことのあたい)に通じる。
  2. ^ 東三河=穂国造という概念は、江戸時代末期に『先代旧事本紀』「国造本紀」が一般に知られるまでは、東三河は穂国で、西三河とは別国也という主張は一切見られない。そのため、江戸中期の三河国二葉松の著者は、三河国=三大河説を唱えた。
  3. ^ 大島兵庫頭・左衛門佐入道を称した[14]

出典[編集]



(一)^ 

(二)^ 420121719

(三)^ 

(四)^ 

(五)^ 622112

(六)^  2000pp. 124-131

(七)^ 1264148

(八)^  1993, pp. 399400.

(九)^  1993, p. 13.

(十)^  1993, p. 288.

(11)^ ab23, 19815681814-1886 , 194016314

(12)^ 西西21849

(13)^ 21178-1179

(14)^ ab 1993, p. 570.

(15)^  1993, p. 16.

参考文献[編集]

  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 第20巻《総集編》、新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。NDLJP:9572171 (要登録)
  • 今谷 明 『戦国大名と天皇』 講談社〈講談社学術文庫1471〉、2004年(第5版)、ISBN 4-06-159471-0
  • 『愛知県史』、『岡崎市史』ほか各自治体史
  • 松島周一『鎌倉時代の足利氏と三河』同成社〈同成社中世史選書21〉、2016年
  • 地方史研究協議会編『三河―交流からみる地域形成とその変容―』雄山閣、2016年
  • 角川日本地名大辞典 23 愛知県
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目[編集]