紀清人
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紀 清人︵き の きよひと 生年不詳 - 天平勝宝5年7月11日︵753年︶︶は、奈良時代の貴族・学者。日本書紀の編纂に携わったほか、大学寮で文章道を教え、文章博士となった。父は従五位下・紀国益[1]。最終官位は散位・従四位下。﹃万葉集﹄に歌1首︵17-3923︶[2]。
経歴
●和銅7年︵714年︶2月10日、元明天皇の詔により、三宅藤麻呂とともに国史︵﹃日本書記﹄と見られる︶の編纂にあたる。[3] ●霊亀元年︵715年︶1月10日、従五位下に叙せられる。 ● 7月10日、学者への恩典として穀100石を賜る。 ●養老元年︵717年︶7月23日、学者への恩典として穀100石を賜る。 ●養老5年︵721年︶1月23日、元正天皇の詔により山上憶良ら15名の文人・学者とともに、皇太子首皇子︵後の聖武天皇︶の侍講となる。 ● 1月27日、文章道の師範たるに堪える者として、山田三方、下毛野虫麻呂、楽浪河内とともに絹糸、綿布などの恩典にあずかる。[4] ●養老7年︵723年︶1月10日、従五位上に叙せられる。 ●天平4年︵732年︶10月17日、右京亮となる。 ●天平13年︵741年︶7月3日、治部大輔兼文章博士となる。 ●天平15年︵743年︶5月5日、正五位下に叙せられる。 ●天平16年︵744年︶2月2日、平城宮の留守官を命ぜられる[5]。 ● 7月6日、父国益とその甥の男人︵ともに故人︶が所有権を争っていた奴婢について、刑部省が国益の子清人のものと決定。清人は上表して奴婢を解放し良民とした。 ● 11月21日、従四位下に叙せられる。 ●天平18年︵746年︶5月2日、武蔵守となる。 ●天平勝宝5年︵753年︶7月11日、死去。時に散位・従四位下。系譜
- 祖父:紀大人
- 父:紀国益
- 母:不明
- 弟:紀諸人