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1919年5月に上田稲子と結婚し、葉子と明子の2女をもうけるが、1929年(昭和4年)6月に離婚。1938年(昭和13年)4月、大谷美津子と再婚するが、一年余りで離婚した。1942年に急性肺炎で死去。
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1919年5月に上田稲子と結婚し、葉子と明子の2女をもうけるが、1929年(昭和4年)6月に離婚。1938年(昭和13年)4月、大谷美津子と再婚するが、一年余りで離婚した。1942年に急性肺炎で死去。
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詩の他には、[[マンドリン]]を趣味とし、[[手品]]も楽しむというハイカラな面も持ち合わせていた。また、大の[[ミステリー]]ファンとして知られており、実作こそしなかったものの、[[江戸川乱歩]]の著した﹁[[パノラマ島奇憚]]﹂に対し、いち早く激賞の評論を書いたのは有名な話である。
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長女[[萩原葉子]]も[[作家]]である。 |
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長女[[萩原葉子]]も[[作家]]である。 |
2005年10月2日 (日) 09:49時点における版
萩原 朔太郎︵はぎわら さくたろう、1886年11月1日 - 1942年5月11日︶は、大正・昭和期の詩人、作家。
生涯
群馬県東群馬郡北曲輪町︵現‥前橋市千代田町︶に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれる。旧制県立前橋中学校︵現・群馬県立前橋高等学校︶の在学中に﹃野守﹄という回覧雑誌を編集して短歌を発表した。1907年(明治40年)第五高等学校に入学し、翌年第六高等学校に転校するが、チフスで中退。1910年(明治43年)・1911年(明治44年)の二度慶応義塾大学予科に入学するが、どちらも短期間で退学した。
1919年5月に上田稲子と結婚し、葉子と明子の2女をもうけるが、1929年(昭和4年)6月に離婚。1938年(昭和13年)4月、大谷美津子と再婚するが、一年余りで離婚した。1942年に急性肺炎で死去。
詩の他には、マンドリンを趣味とし、手品も楽しむというハイカラな面も持ち合わせていた。また、大のミステリーファンとして知られており、実作こそしなかったものの、江戸川乱歩の著した﹁パノラマ島奇憚﹂に対し、いち早く激賞の評論を書いたのは有名な話である。
長女萩原葉子も作家である。
ちなみに世界の中心で、愛をさけぶの主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。
作品
北原白秋に師事し、1917年(大正6年)2月刊行の処女詩集﹃月に吠える﹄で全国に名を知られるようになった。
続いて1923年(大正12年)1月に﹃青猫﹄を刊行。これは﹃月に吠える﹄と並ぶ、朔太郎の代表作とされている。
この他、﹃蝶を夢む﹄、﹃萩原朔太郎詩集﹄、それらを集成した﹃定本青猫﹄がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、高村光太郎と共に﹁口語自由詩の確立者﹂とされる。一方、実生活は2度の離婚や窮乏に苦しんだ。1933年(昭和9)6月に刊行された﹃氷島﹄では、漢文調の文語体に立ち帰り、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく2分されている。
詩集は﹃氷島﹄を最後とし、以降アフォリズムや散文詩の作品をいくつか残している。
外部リンク
ウィキクォートに
萩原朔太郎に関する引用句集があります。
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