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'''藤岡 作太郎'''(ふじおか さくたろう、[[明治]]3年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1870年]][[8月15日]]) - [[明治]]43年([[1910年]])[[2月3日]])は、[[国文学者]]。 |
'''藤岡 作太郎'''(ふじおか さくたろう、[[明治]]3年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1870年]][[8月15日]]) - [[明治]]43年([[1910年]])[[2月3日]])は、[[国文学者]]。 |
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[[加賀国]]金沢︵現・[[石川県]][[金沢市]]︶生まれ。号は東圃・李花亭・枇杷園。[[1890年]]に[[第四高等学校 (旧制)|第四高等中学校]]を卒業。ここでの同窓生に[[西田幾多郎]]、[[鈴木大拙]]がおり、藤岡とあわせて﹁加賀の三太郎﹂と称される。[[帝国大学]]国文科卒業、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]教授ののち、1900年[[東京帝国大学]]助教授となり、[[芳賀矢一]]の洋行の後の担当となる。日本文学史を全体にわたって講義し、﹃国文学全史﹄の執筆にかかるが、平安朝篇のみ完成したところで病に倒れ、享年四十一で死去。没後その遺稿が刊行され、﹃国文学全史平安朝篇﹄は今も読み継がれる古典である。
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長女の綾は、[[1927年]]に雪の結晶の研究で知られる[[物理学者]]・[[中谷宇吉郎]]と結婚したが、翌[[1928年]]に[[ジフテリア]]で死去している。 |
長女の綾は、[[1927年]]に雪の結晶の研究で知られる[[物理学者]]・[[中谷宇吉郎]]と結婚したが、翌[[1928年]]に[[ジフテリア]]で死去している。 |
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長男の[[藤岡由夫]]は原子物理学者、孫の[[藤岡知夫]]はレーザー工学者、曾孫の[[藤岡幸夫]]は指揮者。 |
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==著書== |
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2008年4月16日 (水) 14:04時点における版
藤岡 作太郎︵ふじおか さくたろう、明治3年7月19日︵1870年8月15日︶ - 明治43年︵1910年︶2月3日︶は、国文学者。
加賀国金沢︵現・石川県金沢市︶生まれ。号は東圃・李花亭・枇杷園。1890年に第四高等中学校を卒業。ここでの同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙がおり、藤岡とあわせて﹁加賀の三太郎﹂と称される。帝国大学国文科卒業、第三高等学校教授ののち、1900年東京帝国大学助教授となり、芳賀矢一の洋行の後の担当となる。日本文学史を全体にわたって講義し、﹃国文学全史﹄の執筆にかかるが、平安朝篇のみ完成したところで病に倒れ、享年四十一で死去。没後その遺稿が刊行され、﹃国文学全史平安朝篇﹄は今も読み継がれる古典である。
長女の綾は、1927年に雪の結晶の研究で知られる物理学者・中谷宇吉郎と結婚したが、翌1928年にジフテリアで死去している。
長男の藤岡由夫は原子物理学者、孫の藤岡知夫はレーザー工学者、曾孫の藤岡幸夫は指揮者。