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西園寺実充(さいおんじ さねみつ)は、戦国時代の伊予南部の戦国大名。伊予西園寺氏の当主。
永正7年︵1510年︶、西園寺公家の子として生まれる︵一説に西園寺公季の子とも言われる︶。伊予南部で勢力を誇り、居城を松葉城から黒瀬城に移したが、弘治2年︵1556年︶に宇都宮豊綱と領土をめぐって争い、それによる戦いで実子の公高が戦死するという敗北を喫した。このため、河野通宣の仲介を受けて豊綱と和睦する。
永禄3年︵1560年︶7月18日、従五位下、左近衛少将に叙任された。永禄8年︵1565年︶5月には上洛し、三条公朝の屋敷における和歌の会に列席したが、同年のうちに死去した。享年56。
後を養子の西園寺公広が継いだ。