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2014年1月2日 (木) 01:38時点における版
諸葛 恢︵しょかつ かい 284年 - 345年︶は字を道明と言い、東晋の政治家である。祖父は中国三国時代に魏に仕えた諸葛誕、父は魏が滅んだ後に呉に仕えた諸葛靚である。諸葛亮の親戚筋にあたる。
経歴
若くしてその才能を知られ、西晋で臨沂の令として治績をあげた。永嘉の乱が起こると江東に逃れ、東晋に仕えた。王導の琅邪王氏と並び、その名声は高かった。若い頃、王導に彼は黒髪の宰相になるだろうと言われた。また、潁川の荀闓、陳留の蔡謨は、共に字が﹁道明﹂で、やはり名声があった。そこで、諸葛恢と合わせて﹁中興三明﹂と称賛された。 東晋では元帝・明帝・成帝に仕え、成帝の咸康八年342年に尚書令に至る。 341年︵咸康7年︶、燕王を自称していた前燕の慕容皝が東晋に、燕王の公認を求める使者として劉翔らを送った。慕容皝は後趙の石虎と争っていたため、東晋に接近したのである。諸葛恢は劉翔の姉の夫であったが、﹁夷狄が争っているのは中国の利であります。しかし器と名は、軽々しく許してはなりません﹂と公認に反対した。しかし結局、東晋は慕容皝の王位を公認した。 62歳でなくなった。諡は敬侯。血縁
息子は二人いる。諸葛(虎に甘)と(虎に黒)である。関連項目
- 清和政策研究会 - 元帝が諸葛恢の統治を称賛した詔にある「政清人和(まつりごと清ければ人おのずから和す)」の語句が名称の由来。