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豊臣秀吉
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ピ
ー
が
で
き
ま
す
。
=== 秀次切腹事件 === {{Main|豊臣秀次#切腹事件}} 文禄
2
年(1593年)[[
8
月
3
日 (旧暦)|8月
3
日]]に側室の淀殿が秀頼(拾)を産んだ。秀吉は新築されたばかりの[[伏見城]]に母子を伴って移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。[[山科言経]]の『[[言経卿記]]』によると、[[
9
月
4
日 (旧暦)|9月
4
日]]、秀吉は日本を
5
つに分け、その内
4
つを秀次に、残り
1
つを秀頼に譲ると言ったそうである{{Sfn|渡辺|1919|pp=94-95}}<ref name="owada">{{Citation |和書|last=小和田|first=哲男|editor=|year=2002|title=豊臣秀次:「殺生関白」の悲劇|series=PHP新書|isbn=456962104X}}</ref>。 また[[駒井重勝]]の『駒井日記』([[
10
月
1
日 (旧暦)|10月
1
日]])の記述によると、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであると[[木下吉隆]]が言ったという{{sfnm|1a1=徳富|1y=1935|1pp=205-208|2a1=渡辺|2y=1919|2pp=95-96}}。ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった<ref name="owada" />。 文禄
4
年(1595年)
6
月{{Sfn|徳富|1935|p=215}}、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。
7
月
3
日、聚楽第の秀次のもとへ石田三成・[[前田玄以]]・[[増田長盛]]・[[宮部継潤]]・[[富田一白]]の
5
人{{Efn|異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の
5
名。}}が訪れ、謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。
8
日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ赴くが、引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれ、その夜に上使により剃髪を命じられて、高野山[[青巌寺]]に流罪・蟄居の身となった。
15
日、秀次の許へ上使の[[福島正則]]・[[池田景雄|池田秀雄]]・[[福原長堯]]が訪れ、[[賜死]]の命令が下ったことを伝えた。同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らが殉死した。[[
8
月
2
日 (旧暦)|8月
2
日]]、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(
4
男
1
女)及び側室・侍女らおよそ
29
名が処刑された{{Sfn|徳富|1935|pp=212-214}}。 従来、これは秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明がなされてきた<ref>{{Citation |和書| last =西村 | first =真次 |author-link=西村眞次 | year =1922 | series=国民の日本史;第
8
編|title =安土桃山時代|publisher =早稲田大学出版部|url={{NDLDC|969928/330}} 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=pp.588-591}}</ref><ref name="zian">{{Harvnb|クラツセ|1925|loc=pp.574-587}}</ref>。しかし秀吉と秀次の確執については、[[三鬼清一郎]]が唱えた統治権の対立など様々な説があり、謀反の嫌疑が事実であったのかどうかも含めて切腹の真相を記した文書が存在しないために未だに定かではない部分がある{{Efn|高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。}}。史学者・[[渡辺世祐]]は謀反は秀次を陥れる口実であったとしている{{Sfn|渡辺|1919|pp=113-115}}{{Efn|事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。}}。 また、天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」{{Efn|摂政関白をもじったもの。太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが[[小瀬甫庵]]の『太閤記』など他のほぼ全ての出典となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。}}と呼ばれるなど、秀次の素行に問題があったとする説は当時から存在した。[[太田牛一]]の『[[大かうさまくんきのうち|太閤様軍記の内]]』や『天正記』に見られる秀次の辻斬り乱行{{Sfn|徳富|1935|pp=244-245}}、[[ジャン・クラッセ]]{{Efn|フランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。}}の『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」{{Sfn|徳富|1935|p=223}}や妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行<ref name="zian" />{{Efn|同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。}}や同様の『モンタヌス日本誌』{{Efn|著者の[[アルノルドゥス・モンタヌス]](宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに
7
年後に生まれた人物で、およそ
1
世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。}}<ref>{{Citation|和書|last =アルヌルヅス・|first =モンタヌス|author-link=アルノルドゥス・モンタヌス|year=1925|title =モンタヌス日本誌|publisher =丙午出版社|url={{NDLDC|1020052/155}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>といった複数の記述が残っている。渡辺世祐は、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻(ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている{{sfn|渡辺|1919|pp=106-108}}。[[小和田哲男]]は、秀次の暴虐を強調することは秀吉の一族誅殺を正当化するという側面もあり{{Efn|江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。}}、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定し<ref name="owada" />、[[宮本義己]]も疑問視したうえで、宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた[[曲直瀬玄朔]]を自宅によびよせた一件が、関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己 |date=1987-12 |title=豊臣政権の番医:秀次事件における番医の連座とその動向 |journal=国史学 |ISSN=03869156 |publisher=国史学会 |issue=133 |pages=58-88 |id={{国立国会図書館書誌ID|2868152}} |CRID=1520009409123047808}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己 |date=1988-11 |title=豊臣政権における太閤と関白:豊臣秀次事件の真因をめぐって |journal=國學院雜誌 |ISSN=02882051 |publisher=國學院大學 |volume=89 |issue=11 |pages=237-254 |id={{国立国会図書館書誌ID|2921513}} |CRID=1520290882178666624}}</ref>。[[谷口克広]]は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘し、『太閤記』で罪状のように扱われていることには懐疑的である{{Sfn|谷口克広|2011|pp=263-265}}。
豊臣秀吉
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