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豊臣秀吉
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。
== 人物 == === 出身・家系 === 秀吉の父・弥右衛門は[[百姓]]だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の[[足軽]]だったとする説がある。[[太田道灌]]や[[北条早雲]]の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、小和田哲男は、秀吉は元々苗字持ちでなく、木下家利の[[婿養子]]の名目で木下祐久と改名した[[杉原定利]]の娘[[高台院|おね]]と結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという説を紹介している<ref>[[小和田哲男]]『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』吉川弘文館、2009年、9-14頁。</ref>{{Efn|なお、おねは[[従一位]]に昇進した際に朝廷から「豊臣吉子」の名を賜っている([[高台寺]]文書)<ref>桑田忠親著、日本歴史学会編『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年、
74
頁。</ref>。}}。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性が指摘されている{{Efn|当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。}}。 『[[フロイス日本史]]』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『[[日本教会史]]』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の[[八切止夫]]は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の[[井沢元彦]]は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている{{Efn|井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層にみられた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。}}。 小牧・長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣[[榊原康政]]が、「羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の[[織田信孝|信孝]]公を、[[坂氏 (織田信長側室)|その生母]]や娘と共に虐殺し、今また[[織田信雄|信雄]]公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり。」と秀吉の出自にからめて批判する檄文を発したという<ref>小牧檄文(扇子)厚岸町海事記念館[http://edu.town.akkeshi.hokkaido.jp/kaiji/m_list/2618/]</ref>。 秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが{{Efn|『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の[[桑田忠親]]は、秀吉の正式な側室は
20
人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官を含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。}}、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供ができなかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供ができた者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が[[大野治長]]など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった{{Sfn|フロイス5|loc=第
34
章}}。 秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に
1
男
1
女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、[[羽柴秀勝 (石松丸)|幼名は石松丸、後に秀勝]]といったらしい。[[長浜市|長浜]]で毎年
4
月(昔は
10
月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている([[羽柴秀勝|於次秀勝]]・[[豊臣秀勝|小吉秀勝]])。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正
2
年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている<ref>近江坂田郡誌</ref>。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・[[大政所]]のために寄進されたものであると説明している。しかし『[[多聞院日記]]』によれば、大政所は[[文禄]]元年(1592年)に
76
歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、
76
歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。 === 名称 === 婚姻により妻おねの姓・[[木下氏]]を名乗り、後に[[羽柴氏]]に改める{{Sfn|小和田|1985|pp=36、
56
、100、110}}。諸系図に[[源氏]]や[[平氏]]を称したように書かれているが、[[近衛家]]の[[猶子]]となって[[藤原氏]]に改姓した後、[[正親町天皇]]から[[豊臣氏]]を賜姓されて[[本姓]]とした。下賤・貧困層出身と少年期での父亡き子を隠していない{{Sfn|渡邊|2013|pp=28-29、34-36}}。[[朝鮮]]国王宛の[[明]]への侵攻や、[[台湾]]・[[フィリピン]]への服属と入貢要求で、[[朱印状]]で日輪による受胎での「日輪の子」を名乗り、侵攻・支配要求への根拠とした{{Sfn|光成|2020|pp=79-80}}。[[大村由己]]の[[大村由己#『天正記』|関白任官記]]に見られる秀吉は母方の祖父を「萩の中納言」とする公家の血筋であり、また「大政所が宮仕えをした後に生まれた」という表現は、明言はされていないが天皇の落胤をうかがわせるものであるが、事実とは考えられていない([[#出自|出自参照]])。 しばしば誤って羽柴から豊臣に改姓したといわれるが、羽柴は[[苗字]]、豊臣は姓([[氏姓制度|氏姓]]、[[本姓]])であり、身分が高くなりすぎたために名乗る機会が無くなっただけで、苗字は死ぬまで羽柴だったと考えられる<ref>[[黒田基樹]]『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、
10
頁。</ref>。源頼朝や[[藤原道長]]をみなもと-の-よりとも、ふじわら-の-みちなが、と「の」を挟んで読むが[[徳川家康]]や[[織田信長]]はそうでないのは、前者が姓で後者は苗字だからだという理解からは、豊臣秀吉も、とよとみ-の-ひでよしと読むのが正しいのではないかという説が唱えられている([[岡野友彦]])<ref>[[坂田聡]]『苗字と名前の歴史』吉川弘文館、2006年、39-40頁。</ref>。1583年(天正
11
年)の[[イエズス会]]による外語表記はFaxiba Chiquiendono(羽柴筑前殿)<ref>[[村上直次郎]]訳『イエズス会日本年報 下』雄松堂書店、1969年、269頁。</ref>。 === 容姿 === ; 猿面 : 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉は、その容姿から[[サル|猿]]と呼ばれた。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また[[松下之綱]]は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の[[玉木吉保]]は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『[[懲毖録]]』)。[[ルイス・フロイス]]は「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には
6
本の指があった。目が飛び出ており、[[支那|シナ]]人のようにヒゲが少なかった」と書いている{{Sfn|フロイス4|loc=第
16
章}}。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという{{Sfn|フロイス4|loc=第
14
章}}。 : 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の[[落書]]「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」{{Efn|「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。}}に由来するという説もある。また[[山王信仰]](猿は[[日吉大社]]の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある<ref>[[藤田達生]]{{要出典|date=2021年
2
月}}</ref>。 ; 禿げ鼠 [[File:Letter from Oda Nobunaga to Nene.jpg|500px|thumb|織田信長筆仮名消息([[重要美術品]]、個人蔵)。ねね宛ての書状で、
19
行目に秀吉を指して「はげねすミ」(禿げ鼠)とある。]] :「禿げ鼠」の呼び名は、信長が[[高台院|ねね]]へ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)<ref>{{Cite web|和書|title= 織田信長書状 おね宛て(個人蔵)|work= 平成
19
年度企画展示 天下取りへの道 戦国の武将たち |publisher= [[徳川美術館]] |url=http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/03/obj03.html |accessdate=2016-1-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110613205647/http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/03/obj03.html |archivedate=2011年
6
月
13
日 |deadlinkdate=2018年
3
月 }}</ref>。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。 ; 六本指 : 秀吉は指が
1
本多い[[多指症]]だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が
1
本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』{{Efn|[[前田利家]]の回想録。}})。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い{{Efn|漫画『[[センゴク]]』『[[シグルイ]]』に登場する秀吉は六指である。}}。 : なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した[[三上参次]]は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」{{Sfn|三上|1915|p=168}}と記載している。[[井沢元彦]]は自著<ref>{{Cite book|和書|author=井沢元彦|title=逆説の日本史
11
戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎|publisher=小学館|year=2004|page=8}}</ref>の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは[[松田毅一]]<ref>{{Cite book|和書|author=松田毅一|title=西洋との出会い|volume=上|year=1982|publisher=大阪書籍|page=142}}</ref>であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。さらに三上が指摘をした翌年には[[幸田成友]]も秀吉の多指症について言及している<ref>{{Cite journal|和書|author=幸田成友|authorlink=幸田成友|title=太閤は六ツ指か|year=1916|journal=三田評論|issue=223号}}</ref>。[[姜沆]]の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている<ref>[[山室恭子]]「伝説の戦国大名」朝日新聞学芸部編『中世の光景』朝日新聞社、1994年、208頁。</ref>{{Sfn|渡邊|2013|pp=85-86}}<ref>{{Cite book|和書|author=[[跡部信]]|title=豊臣秀吉と大坂城|year=2014|publisher=吉川弘文館|page=9}}</ref>。[[服部英雄]]は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである<ref>{{Cite book|和書|author=服部英雄|title=河原ノ者・非人・秀吉|year=2012|publisher=山川出版社|page=572}}</ref>。 {{quotation|大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時[[蒲生氏郷|蒲生飛騨殿]]・[[前田利長|肥前様]]・[[金森長近|金森法印]]御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事<ref>東大史料編纂所写真集、十八表―裏</ref>}} === 死因 === 様々な説が唱えられており、[[梅毒|脳梅毒]]、[[大腸癌]]、痢病([[赤痢]]・疫痢の類)<ref>『日本西教史』</ref>、[[尿毒症]]、[[脚気]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[若林利光]]|title=寿命戦争 - 武将列伝|publisher=かりばね書房|year=2009}}</ref>、[[腎虚]]<ref>平凡社『大百科事典』</ref>、[[感冒]](そのため[[藤堂高虎]]と同様に[[桔梗湯]]を処方された<ref>[[曲直瀬玄朔]]『医学天正記』。</ref>)などがある。
50
代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている<ref>『駒井日記』</ref>。[[沈惟敬]]による毒殺説もある{{Efn|朝鮮の古文書『燃藜室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年([[1596年]])で、秀吉が死亡したのはその
2
年後である。}}。 なお同時代人には「秀吉公は、[[善光寺]]如来を[[方広寺]]大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていたことは既述の通りである(後述[[#宗教政策]]も参照)。 === 逸話 === [[ファイル:Toyotomi Hideyoshi Kaou.svg|thumb|200px|豊臣秀吉の[[花押]]]] {{Wikisource|老人雑話#ndljp-frame-231|老人雑話|原文「筑前守(羽柴秀吉)は信長の手の者の様にて、其上{{ruby|磊落|らいらく}}の気質なれば、人に対して辞常におごれり。明智は{{ruby|外様|とざま}}のやうに、其上謹厚の人なれば、辞常にうや{{く}}し。或時筑前守、明智に云ふ様は、わぬしは{{ruby|周山|しうざん}}に{{ruby|夜普請|よぶしん}}をして謀反を{{ruby|企|くはだつ}}と人皆云ふ、如何と。明智答云、やくたいも無きことを云やとて、笑て{{ruby|止|や}}みにけりとぞ」}} 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した[[島津義久]]に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また[[小田原征伐]]で遅参した[[伊達政宗]]に佩刀を預け[[石垣山]]の崖上で二人きりになった。両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも[[小牧・長久手の戦い]]の後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった[[石川数正]]が出奔した際、自らの配下とした<ref>『日本史人物辞典』
70
頁</ref><ref>『戦国人物700傑』119頁</ref><ref>『家康名臣伝』255頁</ref>。 [[賤ヶ岳の戦い]]の最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の[[菅笠]]を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『[[賤ヶ岳合戦記]]』)。また賤ヶ岳の戦い後、[[小早川隆景]]に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという(『[[名将言行録]]』<ref>{{Citation|和書|author=[[岡谷繁実]]|year=1943|title=名将言行録|volume=3|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/144|page=285|publisher=岩波書店|doi=10.11501/1043026}}</ref>)。 小田原征伐の際、[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]の白旗の宮を訪ね、[[源頼朝]]の木像<ref group="注釈">「伝源頼朝坐像」([[重要文化財]])、現在は[[東京国立博物館]]所蔵。[https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100430&content_part_id=0&content_pict_id=0 重要文化財 伝源頼朝坐像] 「
e
国宝」に画像と解説あり。</ref>に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は{{読み仮名|御門|みかど}}の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという(『[[川角太閤記]]』 <ref>{{Citation|和書|author=[[近藤瓶城]]|year=1921|title=史籍集覧|volume=19|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/241|publisher=近藤出版部|pages=105-106|doi=10.11501/1920322}}</ref>)。 秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。[[北野大茶会]]や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する[[落書]]が書かれた際は、犯人を探索し
7
人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女
63
人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『[[鹿苑日録]]』<ref name="asahirekisijinbutu02">[[林屋辰三郎]]「豊臣秀吉」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版。</ref>)。人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀
2
年(1571年)に[[湖北一向一揆]]を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正
5
年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年
12
月
5
日の羽柴秀吉書状)。 母・[[大政所]]への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と[[朝日姫|妹]]を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った[[本多重次]]を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している{{sfn|渡辺|1919|p=180}}。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった{{sfn|渡辺|1919|p=186-187}}。大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる{{sfn|渡辺|1919|p=192}}。 戦国大名は主君と臣下の[[男色]]([[衆道]])を武士の嗜みとしていた{{Efn|織田信長と[[長谷川秀一]]、[[武田信玄]]と小姓・[[春日虎綱|春日源助]]など。}}が、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。当時比類なき美少年と評判だった小姓の羽柴長吉に対しても「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる(『{{ws|[[:s:老人雑話#ndljp-frame-244|老人雑話]]}}』 <ref>{{Citation|和書|author=近藤瓶城|year=1906|title=史籍集覧|volume=10|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920299/168|page=45|publisher=近藤出版部|doi=10.11501/1920299}}</ref>)。 ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、 * 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。 * 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。 * 抜け目なき策略家であった。 * 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 * ほとんど全ての者を[[日本語の二人称代名詞#古語・古風|{{読み仮名|汝|うぬ}}]]、{{読み仮名|彼奴|きゃつ}}呼ばわりした。 などと記している。 上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った{{Efn|『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。}}。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を信長の許可なく勝手に認めてしまい、再び信長に怒られている。 信長に対しては尊敬の念はたいしてもっていなかったようで、信長死後、織田氏から政権を奪い取って自らの豊臣政権を打ち立てたり、その過程で信長の息子達を領地没収(信雄)・切腹させる(信孝)など冷遇したり、信長の肖像画の服装が地味な色に塗り替えられたり、家臣[[脇坂安治]]に宛てた書状で尊称を使わず「信長」と呼び捨てにしている<ref>神戸新聞 2016年
1
月
21
日「秀吉、信長を呼び捨て 公開の書状で権威誇る」</ref>。 === 文化・芸事 === 人と同じに振る舞うことを嫌う、[[傾奇者]]だった。何回か開いた仮装茶会([[名護屋城]]の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は[[山伏]]に扮した。 文化的修養を積むことに努力し、古典文学を[[細川幽斎]]、[[連歌]]を[[里村紹巴]]、[[茶道|茶の湯]]を[[千利休]]、[[有職故実]]を[[今出川晴季]]、[[禅]]を[[西笑承兌]]、[[儒学]]を[[大村由己]]、[[能楽]]を[[金春流|金春]]太夫安照に学んだ<ref>桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0。</ref>。 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ{{Efn|秀吉の和歌は、[[八条宮智仁親王]]によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。}}。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は[[千利休]]でも[[古田重然|古田織部]]でもなく、秀吉であるとする評価もある<ref>[[矢部良明]] 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255-261頁。ISBN 978-4047033474。</ref>。大徳寺の山門は応仁の乱によって大破し、長らくそのままになっていた。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。その落成にあたって山門供養のために利休が[[春屋宗園|春屋]]和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのがこの一偈である。その落成にあたって山門供養のために利休が春屋和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのがこの一偈である、千門萬戶一時開この文は、利休の影響力が自分の影響力を超えていると考え、秀吉を怒らせた。一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。しかし、多く輸入され現地では雑器だが、日本では茶壷として珍重されていた[[ルソン島|ルソン]]壺を、秀吉自身が
7
個を[[若狭]][[小浜]]の豪商の組屋に売りさばかせ、
6
個売れて代金として134両もの大金を手に入れていて、秀吉も商売はしている。この話は、[[小瀬甫庵]]の[[太閤記]]に、文禄
2
年(1593年)[[呂宋助左衛門]]がルソン壺
50
個を秀吉の元に持ち込んで、秀吉が千利休{{Efn|現実には千利休は、天正
19
年(1591年)切腹を命じられ死んでいる。}}と相談し大坂城西の丸に並べて、売りさばき、残った壺は秀吉が買い、助左衛門は大金持ちになったという、商売にたけた雰囲気を伝える創作話として書かれた{{Sfn|池上|pp=260-261|ps=、2001年単行本版による}}。 能筆家であった。[[北大路魯山人]]は秀吉の[[書道|書]]に対して、新たに[[三筆]]を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。 [[囲碁]]は、[[織田信長]]から[[名人 (囲碁)|名人]]という称号を許された日海(後の[[本因坊算砂]])に指導を受けており{{Efn|[[増川宏一]]は算砂が「信長に名人とされたこと」「秀吉に仕えたこと」、いずれも否定している。|name=増川宏一『碁』(法政大学出版会)}}、[[鬼庭綱元]]との[[香の前|賭け碁]]や、[[龍造寺政家]]を巧妙に負かした際に政家が敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなどのエピソードもあるが、[[マネ碁|太閤碁]]で接待されたという説もある。[[将棋]]に関しては、秀吉が有利になる[[将棋の手合割|手合割]]として[[太閤将棋]]が考案されたとされるが、詳細は不明である。 === 本能寺の変の黒幕説 === [[画像:Umajirushi.jpg|thumb|150px|千生り瓢箪([[伏見城]])。豊臣秀吉の[[馬印]]として有名。]] {{main|本能寺の変#変の要因}} [[本能寺の変]]で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく{{Efn|相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の[[南条元続]]たちへの備えといった理由による。}}、救援は不要であった。信長は[[三職推任問題]]や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が[[近衛前久]]と内通していた説があるように、秀吉も大納言の[[勧修寺晴豊]]らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。 また、秀吉の中国大返しに関しても、[[亀山城 (備前国)|沼城]]から姫路城まで
70
キロの距離をわずか
1
日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・[[安国寺恵瓊]]などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。 上記の説についての反論には以下のものがある。 * 『[[信長公記]]』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。 *『浅野家文書』には毛利軍
5
万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。 *秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。 * 本能寺の変直後の
6
月
3
日には、江北周辺の[[武田元明]]・[[京極高次]]らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である[[斎藤利三]]が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『[[言経卿記]]』・『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。 *もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。 *当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。 * 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の[[山陰道]]方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている[[山陽道]]方面ではない。 * 事前の用意については、[[中国大返し]]は信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか
1
日で
70
キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には
1
日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』・「惟任謀叛記」)。 * 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対{{Efn|『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている([[谷口克広]]説など)。}}によって、取り止めになっている。一歩間違えば、秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に[[滝川一益]]のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し、領土を失った信長配下の武将も存在しており、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。 *また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。 なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「[[本能寺の変#黒幕存在説|本能寺の変黒幕説]]」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。
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