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豊臣秀吉
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=== 国内統治システム === [[ファイル:Tensho-hishi-obankin.jpg|thumb|150px|豊臣秀吉が鋳造させた[[天正大判]]。]] {{See also|身分統制令|検地|農奴制}} 秀吉は[[惣無事令]]を出して大名間における私戦を禁じた。また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う[[刀狩令]]、私的な武力行使を制御することを目的とした[[喧嘩停止令]]、海賊行為に対しても[[海賊停止令]]を発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。 各地方に対しては天下人として[[尺]]の統一を行った上で全国で検地が行われた。これは[[太閤検地]]と呼ばれている。同時に日本全国の税制を[[石高制]]に統一し、国家予算の算定と税制が定められた。また、楽市楽座等{{Efn|豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。[[大村由己]]の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた<ref>脇田修『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』中公新書、1991年、112-123頁。ISBN 978-4121010155。</ref>。}}、関所の廃止{{Efn|秀吉は織田政権下ではまだ存在していた[[七口の関]]を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた<ref>[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『天正壬午の乱』学習研究社、2011年。</ref>。}}等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。 豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の
3
分の
2
が年貢)とされていたといわれる。これは善政で知られた[[後北条氏]]の四公六民(収穫の
5
分の
2
が年貢)<ref>その時歴史が動いた「戦国北条氏 百年王国の夢」</ref>と比べて重いように思われるが、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない<ref>{{Cite Kotobank|word=石高制|author=|encyclopedia=世界大百科事典 第
2
版|access-date=2023-05-27}}</ref>。 豊臣政権は[[兵農分離]]態勢を確立するために太閤[[検地]]、人身売買禁止令、人返し令、[[武家奉公人]]の[[身分統制令|身分統制]]等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が[[奴隷制]]から[[農奴制]]に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている<ref>[[下重清]]『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、115頁。</ref><ref>[[嶽本新奈]]『境界を超える女性たちと近代 ——海外日本人娼婦の表象を中心として — —』一橋大学、博士論文、p. 14</ref>。「人身売買禁止令は、[[中世]]の[[奴隷制]]から[[近世]]の[[農奴制]]へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」<ref>下重清『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、
8
頁。</ref>。 秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、[[江戸時代]]の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば([[脇田修]]・[[佐々木潤之介]])、これに否定的な研究者もいる<ref>{{cite book|和書|author=朝尾直弘 |title=近世とはなにか |publisher=岩波書店 |date=2004 |series=朝尾直弘著作集 |ISBN=4000926187 |id={{全国書誌番号|20652149}}}}</ref><ref>池上裕子『日本中近世移行期論』</ref>。[[鎌田道隆]]は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている<ref>{{Cite journal|和書|author=鎌田道隆 |date=1993-12 |url=http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10086451-19931200-1002 |title=京都改造: ひとつの豊臣政権論 |journal=奈良史学 |ISSN=0289-4874 |publisher=奈良大学史学会 |issue=11 |page=21 |CRID=1570291227669550080}}</ref>。ちなみに[[東京大学史料編纂所]]では、慶長
8
年(1603年)の江戸幕府の成立から明治
4
年(1871年)の[[廃藩置県]]までを近世に分類している{{efn|東京大学史料編纂所
HP
「近世史料部」参照。}}。
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