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豊臣秀吉
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=== 宗教政策 === ==== 仏教 ==== {{See also|京の大仏}} [[File:Kanô Naizen Saireizu left.jpg|thumb|240px|『豊国祭礼図屏風』[[慶長]]11年(1606年) [[狩野内膳]]作で[[方広寺]]大仏殿が描かれている。他の絵図に描かれた[[豊臣秀頼]]再建の方広寺大仏殿と、観相窓上部の破風の意匠などが異なって描かれており、絵師のミスでなければ秀吉の造立した方広寺初代大仏殿を描いたものとされる<ref>[[内藤昌]]・[[中村利則]] 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』
9
巻、1982年、144-145頁。</ref>。]] [[File:Toji, kondou-2.jpg|thumb|240px|[参考] [[東寺]]金堂。金堂は[[豊臣秀頼]]の寄進で建立されたが、方広寺初代大仏殿を模して建立されたとの伝承がある<ref name="名前なし-rKgt-1">[[東寺]]『東寺の建造物 古建築からのメッセージ』1995年 p.60 </ref>。金堂の中央には大仏殿のように観相窓(外部から内部に安置される本尊の御顔を拝顔できるようにする窓)があるが、それを開放しても安置される薬師如来の御顔の高さと合っておらず、如来の光背しか見えない<ref name="名前なし-rKgt-1"/>。これは金堂の建物意匠は[[東寺]]のためにデザインされた意匠ではない ことを示唆している。]] [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[京の大仏]]のスケッチ<ref>ベアトリス・
M
・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。ただし描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。]] 仏教勢力に対しては、[[木食応其]]を仲介役として[[高野山]]を降伏させたり、[[園城寺|三井寺]]を[[闕所]]にしたり、[[根来寺]]を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。一方で寺社造営を得意とする木食応其に命じて、[[京の大仏]]を建立したり本願寺を再建したりもしている。ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。 秀吉の側近で[[天台宗]]の元僧侶である[[施薬院全宗]]は[[バテレン追放令]]の『覚』を起草、[[御伽衆]]に所属した大村由己は『九州御動座記』を執筆する等、秀吉政権は還俗した元[[仏教]][[僧]]を重用し宗教政策にも影響を与えた。 秀吉の造立した[[方広寺]]の[[京の大仏]]は、約19mあり[[東大寺]]大仏を上回る高さであったが、開眼法要直前の[[文禄]]5年[[閏月|閏]]7月
13
日([[1596年]][[
9
月
5
日]])に起きた[[慶長伏見地震]]により、大仏は損壊した{{Sfn|河内|2008|p=112}}{{Sfn|村山|2003|p=114}}(『義演准后日記』によれば旧暦
8
月
18
日に開眼供養の予定だったという<ref>張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」『Museum』554号、1998年
6
月、
24
頁。</ref>)。[[醍醐寺]]座主の[[義演]]が著した『義演准后日記』によると、胸が崩れ、左手が落ち(日記の原文は「左御手崩落」で、拝観者から見て左の手、すなわち大仏の右手が落ちたとする解釈もある)、全身に所々ひび割れが入ったという{{Sfn|河内|2008|p=112}}{{Sfn|村山|2003|p=115}}。ただし大仏の光背は無傷で残ったという{{Sfn|河内|2008|p=113}}。大仏損壊の原因について、工期短縮のために当初計画された銅製ではなく、木造としたことが裏目に出たとされる<ref name="西山1996">{{Cite journal|和書|author=西山昭仁|title=文禄
5
年(1596)の伏見地震の被害実態 伏見城 方広寺大仏について|journal=歴史地震|issue=12|publisher=歴史地震研究会|year=1996|url=http://www.histeq.jp/kaishi_26/HE26_92.pdf|format=PDF}}</ref>。またひび割れの原因は表面が漆喰塗りのためとされる。秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、一説には怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる{{Sfn|岳|2013|p=198}}。また秀吉は「夫仏像ヲ安置スルハ、国家ヲ安泰ナラシメンガタメナリ、余若干ノ金銀ヲ抛チ、南都ノ旧規ヲ模シ、数年ヲ経テ成就シヌ、其志ヲモ思ハズ、汝ガ身ノ大ナルニモ恥ズ、一身ヲ保ツ事ダニ能ハズ、裂摧タルハ何ゾヤ、汝ガ如キ用ニモ立ザル仏ヲ、余信ズルコトアルベカラズ(出典:『朝鮮太平記』)」と大仏を面罵したとされる。開眼供養前なので、ただの木像にすぎないと言えなくもないが、大仏に対してこのような不遜な態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、自らの権力を誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある{{Sfn|村山|2003|p=148}}。上記逸話について、いくつかの二次史料([[馬場信意]]著『朝鮮太平記』など)に記録されることから信憑性を疑問視する向きもあるが、歴史地震研究者の[[西山昭仁]]は、地震後の秀吉の動向を分析し、実際に「秀吉が方広寺を訪問し大仏に矢を放った」と仮定した場合、それがなされたのは閏
7
月
15
日のことではないかとしている<ref name="西山1996"/>。(ただし本震の後も余震が続いており、秀吉が身の危険を冒してまで、損壊した大仏に近づいて矢を放ったかという疑問点が残る。堂外から観相窓越しに大仏の眉間に矢を放つことも可能だが、飛距離がある。)なお大仏とは対照的に、大仏殿は地震による損壊を免れた{{Sfn|河内|2008|p=113}}{{Sfn|村山|2003|p=114}}。大仏は損壊したとは言え全壊ではなかったので、その後しばらくそのまま残されていた。ただし大仏は畳表で覆い隠され、人目につかないようにされていたという{{Sfn|河内|2008|p=115}}。『義演准后日記』には、修復までの間、見苦しいので畳表で隠されているのではないかとする記述があり、大仏は修復工事がなされるのではないかとする観測があったことが分かる{{Sfn|河内|2008|p=115}}。しかし『義演准后日記』慶長
2
年(1597年)
5
月
23
日条に「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があり、最終的に秀吉の命令で、大仏は解体されることが決まった{{Sfn|河内|2008|p=115}}。この大仏解体の命令は、秀吉が方広寺での千僧供養会に訪れた際になされたものである{{Sfn|河内|2008|p=115}}。なお宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録されるほか、『[[当代記]]』には秀吉が「かように我が身を保てえざる仏体なれば、衆生済度は思いも寄らず」と発言したと記述される{{Sfn|河内|2008|p=116}}。「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」の話のくだりについて、『義演准后日記』の記述については、秀吉が解体の命令を下した際に、義演ないしは配下が立ち会っていたと思われ、信憑性があると考えられているが、云々(うんぬん)で端折られてしまっているので記述がない。ぺドウロ・ゴーメスの書簡と『当代記』の記述は、当時流布していた風説を記録したものと思われ、秀吉が大仏の解体を命じたのは事実だが、「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」の部分は、実際に秀吉がそのような発言をしたかは不明である{{Sfn|河内|2008|p=116}}。秀吉ならそのようなことを発言するだろうとの憶測による、後付けの作り話の可能性もある(大仏に対して不敬なので、[[義演]]が書き記さなかった可能性もある)。ただ秀吉が損壊した大仏を目前に、大仏を取り壊すよう命じた事実は、当時かなりの衝撃をもって一般大衆に受け取られたようで、先述の「秀吉が怒りのあまり大仏の眉間に矢を放った」とする真偽不明の逸話のように、さまざまな風説が流布していたようである。 その後秀吉は、夢のお告げと称して、損壊した大仏に代わり、新たに由緒ある信濃[[善光寺]]如来([[善光寺式阿弥陀三尊]])を移座して[[本尊]]に迎え、落慶法要を行うことを計画する{{Sfn|村山|2003|p=115}}。善光寺如来は[[武田信玄]]が上杉氏による戦災からの保護を口実として、寺ごと甲斐国に移転させていたので、当時善光寺如来は[[甲斐善光寺]]に安置されていた(一時期武田氏を滅ぼした織田氏によって善光寺如来は外部へ持ち出されるが、[[本能寺の変]]で織田氏が衰亡すると、如来を譲り受けた徳川家康によって甲斐へ返還された)。木食応其の尽力により、[[慶長]]2年([[1597年]])
7
月
18
日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された。[[善光寺]]如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか
?
)が造られ、そこに安置されたという{{Sfn|河内|2008|p=127}}。先述の同年
5
月
23
日の秀吉による大仏の解体の命令は、善光寺如来を安置するため、損壊した大仏を取り除け、その台座上に空いた空間を作ることが目的であったと考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=河内将芳 |date=2018-03 |url=https://hdl.handle.net/11173/2549 |title=研究ノート : 東山大仏と豊臣政権期の京都 : 秀吉在世時を中心に |journal=史窓 |ISSN=0386-8931 |publisher=京都女子大学史学会 |volume=075 |pages=67-79 |hdl=11173/2549 |naid=120006487973 |CRID=1050282812555358592}}</ref>。なお無傷であった光背はそのまま残されていたという{{Sfn|河内|2008|p=127}}。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった{{Sfn|河内|2008|pp=130-131}}。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという{{Sfn|岳|2013|p=199}}。秀吉は翌慶長
3
年([[1598年]])病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年
8
月
17
日、善光寺如来は[[信濃国]]の[[善光寺]]へ戻されることとなった{{Sfn|村山|2003|p=115}}([[甲州征伐]]で武田氏を滅ぼすと、織田氏は戦利品として善光寺如来を岐阜([[善光寺 (岐阜市)]])へ遷座させたが、直後に[[本能寺の変]]が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部に持ち出すと祟られるとする噂が囁かれるようになった)。しかし秀吉は
8
月
18
日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、
8
月
22
日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた{{Sfn|河内|2008|pp=163-165}}。 秀吉が善光寺如来を無理矢理方広寺に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国(山梨県)から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国(山梨県)に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国(長野県)に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる[[源頼朝]]の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた。秀頼の代には彼の寄進で信濃善光寺の伽藍の復興がなされたが、寛永
19
年(1642年)に火災があり烏有に帰した<ref>『長野県史 通史編 第四巻 近世』社団法人長野県史刊行会、1987年。</ref>。 、 ==== 稲荷信仰 ==== [[前田利家]]の実子で秀吉と正妻[[おね]]の養女の豪姫が病にかかったときに、狐が憑いたとされ、秀吉は伏見稲荷へ宛て朱印状を発布した。「日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候」などの脅し文句が著述されているが、この[[朱印状]]が偽物でない事が明かされている<ref>桑田忠親『太閤の手紙』文藝春秋新社、1959年、257-259頁。</ref>。 ==== バテレン追放令 ==== {{main|バテレン追放令|ポルトガルの奴隷貿易}} キリスト教徒に対しては、当初は好意的であった<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/411584 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと
5
万人にのぼる]</ref>{{要検証範囲|しかし宣教師による信仰の強制、キリスト教徒による寺社の破壊|date=2022年
6
月}}、{{要検証範囲|日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正
15
年(1587年)に伴天連追放令([[バテレン追放令]])を出した。ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。|date=2022年
6
月}} 日本初の南蛮[[外科医]]である修道士[[ルイス・デ・アルメイダ]]は、[[有馬晴純]]は領内にあった[[十字架]]を倒し、[[キリスト教徒]]を元の教えに[[強制改宗]]するように命じたと[[1564年]]十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している<ref>Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f. 155.</ref>。1563年十一月七日頃<ref>[[結城了悟|バチェコ・ディエゴ]]著・[[佐久間正 (スペイン語学者)|佐久間正]]訳『長崎を開いた人―コスメ・デ・トルレスの生涯』(中央出版社 1969)</ref>には[[横瀬浦]]港にある[[修道院]]が焼かれ、次いですぐに[[キリスト教徒]]の農民たちの家が焼かれたという<ref>アルメイダ、1564年
10
月
14
日付豊後発信書(Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598.f.151v.)</ref>。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが、日本におけるイエズス会の責任者である[[ヴァリニャーノ]]は神社仏閣の破壊を禁じていた<ref>H・チースリク 「高山右近領の山間部におけるキリシタン――布教・司牧上の一考察」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究第十六輯』一九七六年)</ref>。 [[1587年]]6月
18
日付([[伴天連追放令]]の前日)の
11
か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが<ref>高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年
6
月
18
日</ref>、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり、[[グレゴリオ・デ・セスペデス]]が宣教師として初めて朝鮮半島を訪れたのは[[1593年]]である。 [[ポルトガルの奴隷貿易]]に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが<ref>Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X</ref>、具体的な記述は『'''デ・サンデ天正遣欧使節記'''』と『'''九州御動座記'''』に頼っている。いずれの記録も[[歴史学]]の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ[[天正遣欧使節]]記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている<ref>MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5</ref>。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する[[御伽衆]]に所属した[[大村由己]]の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正
15
年
6
月)後の天正
15
年
7
月に書かれており、キリスト教と激しく対立した[[仏教]]の元[[僧侶]]の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。 {{quotation|牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。}} [[ポルトガル人]]が牛や馬を買い、'''生きたまま皮を剥いで素手で食べる'''との記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは[[東アジア]]では一般的であり<ref> CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.</ref>、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている<ref>Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346</ref>。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある<ref>[[岡田章雄]]『キリシタン・バテレン』至文堂、1955</ref>。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。 {{quotation|[[司祭]]たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした<ref>フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第一冊、同朋舎、1987</ref>}} さらに子どもを食べるために[[宣教師]]が来航し、[[妖術]]を使うために[[目玉]]を抜き取っているとの噂が立てられていた<ref>松田毅一監訳『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第二冊、同朋舎、1987、217-289頁</ref>。[[仏教]]説話集『沙石集』には生き肝を[[薬]]とする説話があり{{sfn|小学館|2020a|p=「猿の生肝」}}仏教徒には馴染みのある説といえ、[[ルイス・デ・アルメイダ]]等による[[西洋医療]]に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である[[大村由己]]が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。 [[ポルトガルの奴隷貿易]]については、歴史家の[[岡本良知]]は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年の[[セバスティアン
1
世 (ポルトガル王) ]]による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本は[[イエズス会]]はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている<ref>OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730</ref>。 ==== サン=フェリペ号事件 ==== {{main|サン=フェリペ号事件}} 秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きた[[サン=フェリペ号事件]]からのことである。{{要検証範囲|幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。[[イエズス会]]宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが{{Efn|アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年
12
月
14
日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、[[ペドロ・デ・ラ・クルス]]は、1599年
2
月
25
日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している<ref>{{Cite book|和書|author=[[高橋裕史]]|title=イエズス会の世界戦略|publisher=講談社|year=1999}}</ref>。}}、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である{{Efn|スペインはサンフランシスコ会、ポルトガルはイエズス会を}}。|date=2022年
6
月}} スペイン側の日本征服計画の有無については、スペイン国王[[フェリペ
2
世 (スペイン王)|フェリペ
2
世]]は[[1586年]]には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた<ref name=parker>Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II (New Haven and London: Yale University Press, 1998), 6.</ref>。 サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の[[征服]]の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の[[1592年]]に豊臣秀吉は[[フィリピン]]に対して[[降伏]]と[[朝貢]]を要求していた<ref>M. T. Paske-Smith, “Japanese Trade and Residence in the Philippines,” Transactions of the Asiatic Society of Japan 42, no. 2 (1914), pp. 696–97.</ref>。秀吉は[[原田喜右衛門]]に[[フィリピン]][[征服]]を任せたが<ref>Francisco de Lorduy, statement incorporated in report by Governor Gómez Pérez Dasmariñas to the king of Spain on the second embassy to Japan, April–May 1593, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39. The reference may be to Kiemon’s close associate Hasegawa Sōnin instead.</ref>、[[侵略]]の動機は[[フィリピン]]の[[黄金]]だったという<ref>The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.</ref>。フィリピン[[侵略]]軍の規模についてはフィリピンには
5
、
6
千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は
3
、
4
千人以上だと知り、
1
万人で十分だと判断、
10
隻の[[大型船]]で[[輸送]]する兵士は
5
、
6
千人以下と決定したとの報告が[[フィリピン]]に伝わっている<ref>The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-53</ref>。豊臣政権は[[フィリピン]]の戦力を正確に把握しており、侵略を恐れるどころかスペインの支配する[[フィリピン]]の[[侵略]]計画をたびたび表明している。 [[1597年]]2月に処刑された[[
26
聖人]]の一人である{{仮リンク|マルチノ・デ・ラ・アセンシオン|es|Martín de la Ascensión}}は[[フィリピン総督]]宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくて[[ルソン島]]にいけないが来年にはいく」とした<ref name="martin" /><ref name="turnbull" />。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は[[琉球諸島|琉球]]と[[台湾]]を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこから[[マニラ]]に攻め入るつもりである」と述べている<ref name="martin">Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.</ref><ref name="turnbull">Turnbull, Stephen (2016)『Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637,』Naval War College Review ([[海軍大学校 (アメリカ合衆国)]]レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5</ref>。 ==== 自身の神格化 ==== 織田信長は自らを神として信仰させようとしたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとした。信長は記録上それを行ったとされる時期のすぐ後に死亡してしまったため、詳しいことはあまり分かっていないが、秀吉は信長よりも具体的な記録が残っている。 秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな[[八幡神|八幡]]として自らを祀るよう遺言した{{Sfn|フロイス5|loc=付録}}。これ以前に秀吉は、[[源頼朝]]の[[富士の巻狩り]]に倣い、尾張で壮大な巻狩りを行っており{{Sfn|フロイス5|loc=第
34
章}}、[[ルイス・フロイス]]はこの巻狩りの目的の
1
つは「頼朝の巻狩りへの人々の回想を弱めしめることであった」と推測している。しかし秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなった。 [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])に[[羽柴氏|豊臣宗家]]が滅亡すると、徳川家康の意向により[[後水尾天皇]]の[[勅許]]を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。神社も[[江戸幕府|徳川幕府]]により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる<ref>『妙法院文書』</ref>。)に遷された。慶応
4
年(1868年)閏
4
月、[[明治天皇]]の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。明治
8
年(1875年)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に豊国神社が再建された。
豊臣秀吉
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