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豊臣秀吉
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=== 江戸時代の評価 === 江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していた<ref name="Miki">{{Cite journal|和書|author=[[三鬼清一郎]] |date=1987-03 |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/8078 |title=豊国社の造営に関する一考察 |journal=名古屋大学文学部研究論集. 史学 |ISSN=04694716 |publisher=名古屋大学文学部 |volume=33 |page=206 |doi=10.18999/jouflh.33.195 |hdl=2237/9811 |CRID=1390009224656486528 |ref=harv}}</ref>。 小瀬甫庵の『太閤記』は広く読まれた。[[元禄]]6年([[1693年]])に発禁処置となったが、[[宝永]]年間([[1704年]] - [[1711年]])には広く出版されており、早いうちにこの措置は解除されたものとみられる<ref name="kamata">{{Cite journal|和書|author=鎌田大資 |date=2015-09 |url=https://kinjo.repo.nii.ac.jp/records/768 |title=日本出版統制史再考 : 序説・江戸時代初期享保以前 |journal=金城学院大学論集. 社会科学編 |ISSN=1880036X |publisher=金城学院大学 |volume=12 |issue=1 |pages=54-70 |naid=120005679110 |CRID=1050001202833440896}}</ref>。 寛政から享和年間に刊行された読本『[[絵本太閤記]]』は庶民の間で大流行し、現代まで一般に知られる秀吉像を形成する大きな役割を果たした<ref name="国文学研究資料館">{{Cite web|和書|title = 絵本太閤記|url = https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200910/index.html|website = 国文学研究資料館|accessdate = 2023-3-11}}</ref>。これを翻案した[[浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の『[[絵本太功記]]』は人気演目の一つとなった。『絵本太閤記』は[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])
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月に発禁措置となり、これを受けて『太閤記』も発禁となり<ref name="kamata" />、[[安政]]6年([[1859年]])に解除されるまで続いた<ref name="国文学研究資料館" />。 朝鮮出兵については無謀な義のない戦であると[[林守勝]]や[[貝原益軒]]などの儒学者からは批判された。一方で軍学者の[[山鹿素行]]や国学者[[本居宣長]]は[[神功皇后]]以来の壮挙であると高く評価している。[[頼山陽]]は秀吉が明による冊封を拒絶したことは尊王の志によるものであると評価し、勤王家としての秀吉像が幕末に広まることになった。[[吉田松陰]]も秀吉を国外に武威を示したと高く評価し、通商容認派の儒学者である[[大槻磐渓]]でさえも朝鮮出兵を高く評価している<ref name="goza20220812">{{Cite web|和書|title = 意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳|url = https://toyokeizai.net/articles/-/609596|author=呉座勇一|authorlink=呉座勇一|website = 東洋経済オンライン|date = 2022-08-12|accessdate = 2022-8-13}}</ref>。また一般でも『絵本太閤記』では日本側の勇戦が強調され、[[近松門左衛門]]の『[[本朝三国志]]』では、「加藤正清」が遼東大王(朝鮮国王)を捕らえ、大王が命乞いをする場面が描かれるなど、朝鮮出兵が負け戦であるという認識は持たれなかった<ref name="goza20220812" />。
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