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蔡邕は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。[[159年]]、蔡邕は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。彼の最も著名な賦﹁述行賦﹂では、その旅程が詩につづられている{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。﹁述行賦﹂では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の[[宦官]]を批判している{{sfn|Knechtges|2010|p=157}}。
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蔡邕は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。[[159年]]、蔡邕は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。彼の最も著名な賦﹁述行賦﹂では、その旅程が詩につづられている{{sfn|Knechtges|2010|p=156}}。﹁述行賦﹂では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の[[宦官]]を批判している{{sfn|Knechtges|2010|p=157}}。
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[[2世紀]]後半から[[3世紀]]初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。[[192年]]の[[董卓]]暗殺の後、漢の遺民となった[[王粲]]は、﹁登楼賦﹂と題する有名な賦を作った。これは王粲が[[荊州]]付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[禰衡]]の﹁鸚鵡賦﹂のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は﹁鸚鵡賦﹂で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中の[[オウム]]に託けた{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[ |
[[2世紀]]後半から[[3世紀]]初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。[[192年]]の[[董卓]]暗殺の後、漢の遺民となった[[王粲]]は、「登楼賦」と題する有名な賦を作った。これは王粲が[[荊州]]付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[禰衡]]の「鸚鵡賦」のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は「鸚鵡賦」で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中の[[オウム]]に託けた{{sfn|Idema|Haft|1997|p=109}}。[[三国時代]]、英雄[[曹操]]とその息子[[曹丕]]・[[曹植]]の邸宅は詩壇となり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている([[建安文学]])。 |
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=== 六朝 === |
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