「金田正一」を編集中
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引退後は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]](1970年 - {{by|1972年}})・[[ニッポン放送]](1972年)で[[野球解説者|解説者]]を務める傍ら、タレントとしても活動していた<ref name="1974 ロッテオリオンズ">[[ベースボールマガジン]] 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版(7) 1974ロッテオリオンズ P82-P83</ref>。同時に実業家で会社を経営する経営者でもあった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に">[[週刊ベースボール]]2023年11月27日号、1972年11月17日、崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に、58-59頁</ref>。1972年[[11月17日]]、ロッテの監督に就任<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。「新人監督なのに年俸が高すぎる」という関係者もいた(阪急で黄金時代を築いていた阪急の[[西本幸雄]]監督の年俸は1300万円だった。)<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。しかし金田は「順調だった仕事をなげうってまで監督を引き受け引き受けようとしてるんやで。ワシの今までの働きからすれば安いもんや」と一蹴<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。また現役時代「天皇」と呼ばれたほどのワンマンだった金田が監督業が務まるのかという危惧にも「名選手必ずしも名監督あらず、というのはことわざや。野球界に金田旋風を起こすつもりや。」と意に介さなかった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。当時のロッテの状況は取り巻くほどひっ迫していた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。2軍監督は金田の高校の先輩[[高木公男]]が就任。この年に5位に沈んだロッテは観客動員がわずか31万人で閑古鳥が鳴いていた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]もあり観客動員が大幅に激減していた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。金田は「ワシが野球界に戻そうとしているのはロッテだけの再建やないで、日本の野球界再建の為や。」、「ピンチの[[パリーグ]]のお客さんを呼ばなきゃいかん。」、「お客さんを呼ぶためにはワシは球場で逆立ちしてもええ。」<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />と述べた。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインし、軽量化にも拘った。{{by|1974年}}にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。 |
引退後は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]](1970年 - {{by|1972年}})・[[ニッポン放送]](1972年)で[[野球解説者|解説者]]を務める傍ら、タレントとしても活動していた<ref name="1974 ロッテオリオンズ">[[ベースボールマガジン]] 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版(7) 1974ロッテオリオンズ P82-P83</ref>。同時に実業家で会社を経営する経営者でもあった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に">[[週刊ベースボール]]2023年11月27日号、1972年11月17日、崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に、58-59頁</ref>。1972年[[11月17日]]、ロッテの監督に就任<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。「新人監督なのに年俸が高すぎる」という関係者もいた(阪急で黄金時代を築いていた阪急の[[西本幸雄]]監督の年俸は1300万円だった。)<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。しかし金田は「順調だった仕事をなげうってまで監督を引き受け引き受けようとしてるんやで。ワシの今までの働きからすれば安いもんや」と一蹴<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。また現役時代「天皇」と呼ばれたほどのワンマンだった金田が監督業が務まるのかという危惧にも「名選手必ずしも名監督あらず、というのはことわざや。野球界に金田旋風を起こすつもりや。」と意に介さなかった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。当時のロッテの状況は取り巻くほどひっ迫していた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。2軍監督は金田の高校の先輩[[高木公男]]が就任。この年に5位に沈んだロッテは観客動員がわずか31万人で閑古鳥が鳴いていた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]もあり観客動員が大幅に激減していた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。金田は「ワシが野球界に戻そうとしているのはロッテだけの再建やないで、日本の野球界再建の為や。」、「ピンチの[[パリーグ]]のお客さんを呼ばなきゃいかん。」、「お客さんを呼ぶためにはワシは球場で逆立ちしてもええ。」<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />と述べた。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインし、軽量化にも拘った。{{by|1974年}}にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。 |
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注目度は高く{{by|1973年}}のロッテの鹿児島キャンプの観客数は巨人に次ぐ2位<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。選手たちをまるで陸上部からと思わせるほどの徹底的な走り込みを課し体力強化に努め12球団と言われた豪華な食事を準備しトレーナーの数を増員するなどアフターケアも欠かさなかった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。本拠地を失い地方ゲームが増えたというハンディを乗り越え3位に浮上した<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人︵[[成田文男]]・[[八木沢荘六]]・[[木樽正明]]︶もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。[[弘田澄男]]を中堅手のレギュラーに抜擢した<ref>︻完全保存版︼ロッテ70年史 1950-2019 ~記憶に残るオリオンズ&マリーンズ全史~ (B.B.MOOK1450) 弘田澄男﹁カネやんロッテの斬り込み隊長﹂、40-41頁、[[ベースボール・マガジン社]]、 |
注目度は高く{{by|1973年}}のロッテの鹿児島キャンプの観客数は巨人に次ぐ2位<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。選手たちをまるで陸上部からと思わせるほどの徹底的な走り込みを課し体力強化に努め12球団と言われた豪華な食事を準備しトレーナーの数を増員するなどアフターケアも欠かさなかった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。本拠地を失い地方ゲームが増えたというハンディを乗り越え3位に浮上した<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人([[成田文男]]・[[八木沢荘六]]・[[木樽正明]])もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。[[弘田澄男]]を中堅手のレギュラーに抜擢した<ref>【完全保存版】ロッテ70年史 1950-2019 ~記憶に残るオリオンズ&マリーンズ全史~ (B.B.MOOK1450) 弘田澄男「カネやんロッテの斬り込み隊長」、40-41頁、[[ベースボール・マガジン社]]、</ref>。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)、その効果はパリーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。この頃、大映倒産に伴う[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]の経営権問題が勃発、金田が球場の狭さを嫌がったこともあり、暫定的に経営権を所有していた[[国際興業]]社主の[[小佐野賢治]]が球場の廃業と閉鎖を決めてしまう。そのため、同年からは[[宮城球場]]を本拠地としながら各地で主催試合を行うことになり、「'''[[ジプシー・ロッテ]]'''」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった[[明治神宮野球場|神宮球場]]の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりであった。[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]と[[野村収]]との交換トレードで弟・留広を獲得。 |
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1974年は前期[[オリックス・バファローズ|阪急]]に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で後期優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[ジョージ・アルトマン]]を負傷で欠き、[[有藤通世|有藤道世]]もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが<ref>[[永谷脩]]著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将、[[廣済堂出版]]、2013年、P298</ref>巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には﹁長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や﹂と喜び<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P56-P57">[完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P56-P57</ref>、[[外堀通り]]で行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。[[さんまのまんま]]に出演した際︵{{by|1987年}}11月30日︶には﹁どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた﹂と語っている。
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1974年は前期[[オリックス・バファローズ|阪急]]に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で後期優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[ジョージ・アルトマン]]を負傷で欠き、[[有藤通世|有藤道世]]もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが<ref>[[永谷脩]]著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将、[[廣済堂出版]]、2013年、P298</ref>巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には﹁長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や﹂と喜び<ref name="草創期から支え続けた147人の監督列伝 P56-P57">[完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P56-P57</ref>、[[外堀通り]]で行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。[[さんまのまんま]]に出演した際︵{{by|1987年}}11月30日︶には﹁どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた﹂と語っている。
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