「馬騰」の版間の差分
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'''馬 騰'''(ば とう、? - [[建安 (漢)|建安]]17年([[212年]])<ref>『[[後漢書]]』巻9 孝献帝紀</ref>)は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''寿成'''。[[司隷]][[右扶風|扶風郡]]茂陵県([[陝西省]][[興平県]]の北東)の人。祖先は後漢初期の名将[[馬援]]。父は馬平(字は子碩)。子は[[馬超]]・[[馬休]]・[[馬鉄]]。甥は[[馬岱]]。 |
'''馬 騰'''︵ば とう、? - [[建安 (漢)|建安]]17年︵[[212年]]︶<ref>﹃[[後漢書]]﹄巻9孝献帝紀</ref>︶は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''寿成'''。[[司隷]][[右扶風|扶風郡]]茂陵県︵[[陝西省]][[興平県]]の北東︶の人。祖先は後漢初期の名将[[馬援]]。父は{{仮リンク|馬平 (後漢)|label=馬平|zh|馬平 (漢朝)}}︵字は子碩︶。子は[[馬超]]・[[馬休]]・[[馬鉄]]。甥は[[馬岱]]。
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==略歴== |
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家業を営んでいなかったため、幼い馬騰は彰山で材木を切って背負い城市で売ることで生計を立てていた。成人した馬騰は、身長6尺を越え容貌も雄異であり、その性格は温厚かつ賢明であったので多くの人が尊敬したという。 |
家業を営んでいなかったため、幼い馬騰は彰山で材木を切って背負い城市で売ることで生計を立てていた。成人した馬騰は、身長6尺を越え容貌も雄異であり、その性格は温厚かつ賢明であったので多くの人が尊敬したという。 |
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[[中平]]元年([[184年]])、[[涼州]][[刺史]]の[[:zh:耿鄙|耿鄙]]が佞吏を信用したため[[テイ (民族)|氐]]や羌が反乱を起こした。さらに、[[:zh:北宫伯玉|北宮伯玉]]・李文侯・[[:zh:王国 (人物)|王国]]・[[韓遂]]・[[辺章]]といった者たちもこれに続いて反乱を起こしたため、耿鄙はこれらを鎮圧しようと郡内で勇敢な者を募集した。この時、馬騰もこれに応じた。 |
[[中平]]元年([[184年]])、[[涼州]][[刺史]]の[[:zh:耿鄙|耿鄙]]が佞吏を信用したため[[テイ (民族)|氐]]や羌が反乱を起こした。さらに、[[:zh:北宫伯玉|北宮伯玉]]・[[李文侯]]・[[:zh:王国 (人物)|王国]]・[[韓遂]]・[[辺章]]といった者たちもこれに続いて反乱を起こしたため、耿鄙はこれらを鎮圧しようと郡内で勇敢な者を募集した。この時、馬騰もこれに応じた。 |
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馬騰を見た役人たちは彼が只者ではないと見て軍従事に抜擢し、部隊を率いさせた。馬騰は期待通りに功績を挙げ、軍司馬(将軍の属官)に任じられた。 |
馬騰を見た役人たちは彼が只者ではないと見て軍従事に抜擢し、部隊を率いさせた。馬騰は期待通りに功績を挙げ、軍司馬(将軍の属官)に任じられた。 |
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後に[[董卓]]の[[長安]]遷都後に出仕し、反乱異民族を退けるなど軍功を挙げて偏将軍となった。董卓亡き後、長安で[[李カク (後漢)|李傕]]と[[郭シ|郭汜]]が政権を握ると、馬騰と韓遂は李傕達に対して恭順の意を見せたため、それぞれ征東将軍と鎮西将軍に任じられた。
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後に[[董卓]]の[[長安]]遷都後に出仕し、反乱異民族を退けるなど軍功を挙げて偏将軍となった。董卓亡き後、長安で[[李カク (後漢)|李傕]]と[[郭シ|郭汜]]が政権を握ると、馬騰と韓遂は李傕達に対して恭順の意を見せたため、それぞれ征東将軍と鎮西将軍に任じられた。
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その後、李傕らと私心を通じようとしたが聞き入れられなかったため対立し、[[益州]]の[[劉焉]]と手を結び、<ref>三国志﹃益州耆旧伝﹄より。韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時、幾度も劉焉と連絡を取り合っていたという。</ref>馬宇・劉範・杜稟らの協力を得て襲撃を計画した。韓遂は軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局再び馬騰に合流することとなった。一方、李傕は郭汜・[[樊稠]]・[[李利]]を出撃させ、長平観で馬騰らと戦わせた。しかし事ここに至り、馬騰らの襲撃計画が洩れてしまったため劉範が槐里に逃亡。また、長平の王承らも馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出撃し防備のなくなったところを攻撃した。馬騰は軍が壊滅して潰走したものの、引き続き将軍位を授けられている。
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その後、李傕らと私心を通じようとしたが聞き入れられなかったため対立し、[[益州]]の[[劉焉]]と手を結び、<ref>三国志﹃益州耆旧伝﹄より。韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時、幾度も劉焉と連絡を取り合っていたという。</ref>[[馬宇]]・[[劉範]]・{{仮リンク|杜稟|label=杜稟|zh|杜稟}}らの協力を得て襲撃を計画した。韓遂は軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局再び馬騰に合流することとなった。一方、李傕は郭汜・[[樊稠]]・[[李利]]を出撃させ、長平観で馬騰らと戦わせた。しかし事ここに至り、馬騰らの襲撃計画が洩れてしまったため劉範が槐里に逃亡。また、長平の王承らも馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出撃し防備のなくなったところを攻撃した。馬騰は軍が壊滅して潰走したものの、引き続き将軍位を授けられている。
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その後、涼州に戻った馬騰と韓遂は、義兄弟の契りを結び仲睦まじくしていたが、やがて互いに攻撃し合うようになった。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、再び軍勢を集めて反撃し、馬騰の妻子<ref>三国志﹁馬超伝﹂より。この事から馬超の母親や実兄弟ではない。</ref>を殺した。このため和睦は困難なものとなり、戦が絶えなかったという。
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その後、涼州に戻った馬騰と韓遂は、義兄弟の契りを結び仲睦まじくしていたが、やがて互いに攻撃し合うようになった。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、再び軍勢を集めて反撃し、馬騰の妻子<ref>三国志﹁馬超伝﹂より。この事から馬超の母親や実兄弟ではない。</ref>を殺した。このため和睦は困難なものとなり、戦が絶えなかったという。
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争いをやめた馬騰は召し返されて槐里に駐屯し、そこで[[前将軍]]・仮節・槐里侯<ref>馬騰の官職および駐屯地の推移は、生涯を通じて明瞭でない。</ref>となった。胡族や族徒の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆を労わった。このため[[三輔]]が安定し、人々は非常に彼を敬愛したという。 |
争いをやめた馬騰は召し返されて槐里に駐屯し、そこで[[前将軍]]・仮節・槐里侯<ref>馬騰の官職および駐屯地の推移は、生涯を通じて明瞭でない。</ref>となった。胡族や族徒の侵入に備え、士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆を労わった。このため[[三輔]]が安定し、人々は非常に彼を敬愛したという。 |
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[[袁紹]]と曹操が対立するようになると、鍾繇は張既を使者として馬騰の下に派遣し、袁紹軍の[[郭援]]・[[高幹]]を討伐するよう説得した。はじめ馬騰は袁尚の誘いに応じていたが、[[傅幹]]の勧めもあったため、鍾繇の下に馬超・[[ホウ徳|龐徳]]を派遣し合流させ、郭援を撃破させた。その後も馬騰は曹操の援軍要請に応え、龐徳を従え高幹・張白騎・張琰・衛固らの討伐に参加している。 |
[[袁紹]]と曹操が対立するようになると、鍾繇は張既を使者として馬騰の下に派遣し、袁紹軍の[[郭援]]・[[高幹]]を討伐するよう説得した。はじめ馬騰は[[袁尚]]の誘いに応じていたが、[[傅幹]]の勧めもあったため、鍾繇の下に馬超・[[ホウ徳|龐徳]]を派遣し合流させ、郭援を撃破させた。その後も馬騰は曹操の援軍要請に応え、龐徳を従え高幹・[[張白騎]]・[[張琰]]・[[衛固]]らの討伐に参加している。 |
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建安13年([[208年]])、曹操は[[荊州]]遠征の際、馬騰らが[[関中]]に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散した上で帰還するよう説得した。馬騰は承諾したもののすぐに入朝しなかったという。このため張既は馬騰の心変わりを恐れ、諸県に命令書を送って食糧を用意し、[[太守]]に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむを得ず出立し、朝廷に召されて[[衛尉]]となった。 |
建安13年([[208年]])、曹操は[[荊州]]遠征の際、馬騰らが[[関中]]に割拠していることを危惧し、張既を派遣して部曲を解散した上で帰還するよう説得した。馬騰は承諾したもののすぐに入朝しなかったという。このため張既は馬騰の心変わりを恐れ、諸県に命令書を送って食糧を用意し、[[太守]]に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむを得ず出立し、朝廷に召されて[[衛尉]]となった。 |
2017年9月17日 (日) 17:44時点における版
馬騰 | |
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![]() 清代の書物に描かれた馬騰 | |
後漢 衞尉 | |
出生 |
詳細不明 不詳 |
死去 |
建安17年(212年) 鄴城 |
拼音 | Mă Téng |
字 | 寿成 |
主君 | 霊帝→王国→曹操 |