エウグノストス
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エウグノストスは、グノーシス文書の中の文書の一つである。1945年にエジプトの土中から見つかった﹃ナグ・ハマディ写本﹄群に含まれていた文書である[注 1]。﹃エウグノストス﹄は2写本あり、ここで取り上げている一冊は、キリスト教色のない、グノーシス文書であるとされている[1]。
この書は、宇宙開闢の神について語られている。この教えは、﹁教え与えられる必要のない者﹂が現れ出るまでの教えであるとされている[注 2]。
(2)-1-2 ﹁自分から与えられた父﹂は、王国をつくることができる権能を自覚する。つまり、﹁不死の人間﹂は、自分で神の国を創ろうと思い立てば、神の国を創ることができるようになった、ということのようである[注 27]。 (2)-2-1 ﹁自分から与えられた父﹂は、神聖と主権を持った王の存在する王国の要素としての名︵イデアのようなものからくる名前︶を出現させる[10]。 (2)-2-2 ﹁自分から与えられた父﹂は、神の国を創ることとする。﹁自分から与えられた父﹂は、﹁人の子﹂・﹁父﹂・﹁深さの人間﹂という名で、国王に位置することとなった[注 28]。 そのさい、王には、ひとりの友がいて彼と連結した状態で王国を支えてゆく、という基本図式に沿って、王国が構築されたとされる[11]。その﹁ひとりの友﹂は、﹁人の子﹂から絶大な権威を与えられたとされる[注 29]。 (2)-2-3 数多の﹁人の子ら﹂は、各々の恒星系において、神の王国の図式をつくる。 (2)-2-4 ﹁人の子ら﹂は、神の友をつくる。 (2)-2-5 ﹁人の子ら﹂は、天使長たちを、数えきれないほどつくる。 (2)-2-6 ﹁人の子ら﹂は、それぞれの神性と主権と王国とを打ち立てた。そして、これらについて行く者たちを生み出した[12]。 (2)-3-1 ﹁人の子﹂には、﹁人の子の子﹂を生み続けてゆくという能力が備わっているとされていて、そのうちの初子が、﹁光の目なるアダム﹂になるとされる。
成立年代[編集]
成立年代は、紀元前1世紀~紀元2世紀までの間とされている。イエスの生まれる前の思想のようではあるが、さだかではない。同じ題名ではあるが、キリスト教グノーシス主義者によって編集されたとされる﹁エウグノストス﹂がもう一冊ある。この、編集された写本は、類似の異本である﹁イエスの知恵﹂よりも後に編集されたとされている。グノーシス主義との関係[編集]
古代ギリシアの中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書もグノーシス主義に影響しているとされている。﹃エウグノストス﹄は、エジプトのアモン神話や、ユダヤ教の影響が見られるとされる[2]。 二元論的な思想とは、﹁全能者は、この世界を覆っていて、悪︵貧しさや高慢︶である﹂とする思想である。この二元論は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある[3]。 非キリスト教グノーシス主義とされるものには、二元論的であるものとそうでないものとがあるとされる。二元論的でない思想については、古代ギリシアに由来するものであるといえるかどうかはさだかではない。この文書は、他の異本とは異なり、﹁この世界は、敵対者ないし、より劣る存在による産物である﹂とはされていない。そのため、古い時代に成立した﹁エウグノストス﹂の場合は、二元論的ではないといえる[注 3][注 4]。 また、新約聖書に見るイエスの思想は、二元論的でないので、この写本は、イエスの思想と同じような位置にあるといえる[注 5]。 ﹁宇宙開闢﹂は、旧約聖書でいう﹁天地創造﹂とは、大きく視点が異なっている。ギリシャ神話にはコスモス︵秩序宇宙︶の観念が成立していたとされていることから、宇宙の話を一元論で伝えるのは、ギリシア思想由来の神観であると見ることができる[注 6]。内容[編集]
啓示認識としての神観[編集]
この文書では、宇宙の開闢から説き明かされる神的世界は、いくつかの原理によって成り立っているとされている[4] [注 7][注 8]。三つ目の原理[編集]
(3)-1-1 大いなる光りをあらわす﹁輝く者﹂が出現する。﹁輝く者﹂は、﹁人の子の子﹂・﹁不死の人間の初子﹂・﹁救い主﹂とも呼ばれる。これは、通常、﹁光の目なるアダム︵子なる光から来た者︶﹂と呼ばれる[5][注 9][注 10]。﹁輝く者﹂は、﹁すべてを生じさせる者﹂と呼ばれる。 ﹁輝く者﹂は、﹁人の子なる光から来た者﹂とも呼ばれる[注 11]。その、神の光に満ちた﹁深さの人間︵深い次元の人の子︶﹂は、大いなる光りのように、栄光に輝く存在となり、人々は、その﹁栄光の輝き﹂に向かって向上を続けることとなる。そして、その道は、言い表せない栄光に満ちたものとなった、とされる[注 12][注 13]。 (3)-2-1 ﹁輝く者﹂は、多くの天使をつくる[注 14]。 (3)-2-2 ﹁輝く者﹂は、﹁人の子の王国﹂をつくる[6][注 15]。 (3)-3-1 ﹁輝く者﹂は、各時代を導くために、﹁賢者︵救い主の分霊︶﹂を送ると考えられる[注 16][注 17]。一つ目の原理︵最初の世代︶[編集]
(1)-1-1 宇宙のはじまる前には、﹁生まれざる者﹂と呼ばれる存在がいた。﹁生まれざる者﹂は、﹁至高者﹂・﹁先にあった父﹂・﹁原父﹂・﹁生まれざる者なる父﹂と呼ばれる[7][注 18]。 (1)-1-2 ﹁生まれざる者﹂は、﹁至高者の似像﹂、﹁自らの鏡見の存在の出現﹂を現成させる[8][注 19][注 20]。おおまかに言えば、至高の次元に偏在していた神が、二つの次元を創り出した、ということのようである。 (1)-1-3 ﹁生まれざる者﹂は、ソフィアや、生成や、そのほかのエネルギーの流れや、12のアイオーンなどを出現させる。これらは、法則的・次元的なもののようではあるが、いずれも人格的なものとして名づけられている[注 21]。これらは、現在の宇宙にあると想定される、法則としての構成要素や次元を言い表したものと見ることができる。 (1)-2-1 ﹁生まれざる者﹂は、﹁生まれざる者なる父の子ら﹂を出現させる[注 22]。これは、神が、現在の宇宙に銀河系を誕生させた、と見ることができる。 (1)-2-2 ﹁生まれざる者﹂は、﹁生まれざる者なる父﹂の子らを無数出現させる[注 23]。二つ目の原理︵はじまりの瞬間︶[編集]
この原理における﹁生まれざる者﹂による、﹁はじめの発生﹂とは、﹁人の子﹂の発生の瞬間である。﹁人の子﹂というのは、神的次元に存在し︵不死の人間︶、かつ、三次元的にも実体を有するもの、と考えることができる[注 24][注 25]。 簡単に言うと、天の川銀河の恒星系の中で、人が住めるような惑星の出現とともに、その、神的次元に、﹁人の子ら﹂のうちの一人が存在するようになった、というような意味である。人の子は、ひとり子とは限らない。数名の人の子が、同一存在であることも考えられる。 (2)-1-1 ﹁生まれざる者﹂によって、﹁自分から与えられた父﹂が生まれる。﹁自分から与えられた父﹂は、﹁はじめの発生﹂・﹁人の子﹂・﹁不死の人間﹂等と呼ばれる[9]。﹁はじめの発生﹂とは、宇宙の中で、はじめに生まれた銀河系の中で、地球が回る太陽系のような場所を構成してゆく存在が生まれた、と解釈できる。また、﹁はじめの発生﹂は、﹁父のうちにあらわれた子﹂であるとされているので、神とは別の存在としてあるのではなく、神と自己同一の存在として現れた、と解釈できる [注 26]。大まかにいうと、宇宙に存在する無数の銀河系の中心に、神の直系としての存在が、﹁神の王国﹂を創り出す、そのための設計図ができて、それを最初に実行して生み出されたのが、﹁不死の人間︵人の子︶﹂であるということのようだ。(2)-1-2 ﹁自分から与えられた父﹂は、王国をつくることができる権能を自覚する。つまり、﹁不死の人間﹂は、自分で神の国を創ろうと思い立てば、神の国を創ることができるようになった、ということのようである[注 27]。 (2)-2-1 ﹁自分から与えられた父﹂は、神聖と主権を持った王の存在する王国の要素としての名︵イデアのようなものからくる名前︶を出現させる[10]。 (2)-2-2 ﹁自分から与えられた父﹂は、神の国を創ることとする。﹁自分から与えられた父﹂は、﹁人の子﹂・﹁父﹂・﹁深さの人間﹂という名で、国王に位置することとなった[注 28]。 そのさい、王には、ひとりの友がいて彼と連結した状態で王国を支えてゆく、という基本図式に沿って、王国が構築されたとされる[11]。その﹁ひとりの友﹂は、﹁人の子﹂から絶大な権威を与えられたとされる[注 29]。 (2)-2-3 数多の﹁人の子ら﹂は、各々の恒星系において、神の王国の図式をつくる。 (2)-2-4 ﹁人の子ら﹂は、神の友をつくる。 (2)-2-5 ﹁人の子ら﹂は、天使長たちを、数えきれないほどつくる。 (2)-2-6 ﹁人の子ら﹂は、それぞれの神性と主権と王国とを打ち立てた。そして、これらについて行く者たちを生み出した[12]。 (2)-3-1 ﹁人の子﹂には、﹁人の子の子﹂を生み続けてゆくという能力が備わっているとされていて、そのうちの初子が、﹁光の目なるアダム﹂になるとされる。
異本について[編集]
上記の﹃エウグノストス﹄は、非キリスト教グノーシス主義︵グノーシス主義︶の写本であるとされている。この他にも﹃エウグノストス ︵聖なるエウグノストス︶﹄という表題の、同じような内容の写本がある。しかし、この写本は、キリスト教グノーシス主義者が、古い﹃エウグノストス﹄に手を加えたものであるとされている。また、この写本のほかにも、古い﹃エウグノストス﹄をキリスト教グノーシス主義に改編したとされる、﹃イエスの知恵﹄や、﹃イエスキリストの知恵﹄︵ベルリン写本︶などの文書があり、全体で4種類の文書がある[2]。 ﹃イエスの知恵﹄と﹃エウグノストス﹄を並行して見ることによって、宗教哲学的な書簡が、キリスト教の啓示説話に変えられてゆく様を見ることができるとされている[13]。﹃イエスの知恵﹄の編集者が、これを改編した主要な目的は、非キリスト教グノーシス主義者をキリスト教グノーシス主義に引き込むことにあったとされている。参考文献[編集]
﹃ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡﹄ 岩波書店 1998年 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳関連項目[編集]
啓示宗教 悟り脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 367年前後に現行新約以外の経典を排除するように通達が出されたことと、写本群が土中に保存されていたこととは、関連があるとされている。︵出典﹃ナグ・ハマディ文書II福音書﹄ 岩波書店、1998年 序にかえてP8 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳︶
(二)^ 次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であると解釈することができる。そのため、古代ローマ時代に成立したこの一写本は、宇宙開闢の神が、賢者に啓示を下した内容について記されたもの、と見ることができる
(三)^ キリスト教グノーシス主義者によって編集されている同名の他の一冊を度外視して考えると、古典的な古代ギリシャ思想であると見ることができる。キリスト教グノーシス主義の一部は、現実の天地をつかさどる神とは、﹁貧しい創造をした神﹂であるとして、神を卑しめている、という特徴がある。︵出典﹃ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡﹄ 岩波書店 1998年 解説エウグノストス P503 小林稔︶
(四)^ ゴータマ・ブッダは宇宙の背後に神の存在を認めていたと考えられる︵出典﹃ブッダのことば﹄中村元 岩波書店 1984年 P250 第1章第2節注18︶この場合の神は﹁全能者﹂の位置にあると考えられる。その意味では一元論であるといえる。悪魔は仏の慈悲の邪魔をするということも、語っている。︵撒餌経︶それに加えて、ブッダは、自己と宇宙とが一体となった悟りの境地に到達した、とする見解がある。︵出典﹃心の原点﹄高橋信次 三宝出版 1973年 P26 ︶そして、覚者として、神の存在を直感したようである。︵サンガーラヴァ経︶
(五)^ イエスは、神は﹁一なる存在﹂であり、眼前の自然の姿には、神の愛があふれていると考えていたようである。卑しい神という概念は無く、人間の自由意思に任せている世間的な価値や権力は、魔的な存在がこれを支配している、としている。イエスは、魔的な存在は、自らを神の座につけようとして、信者を誘惑しだまそうとしている︵出典新約聖書ルカ福音書4‥5︶、という﹁世間﹂に対する見方をしていた。そうした意味では、二元論は、魔的な存在を眼前の天地創造の神よりも優位にしているという見方もできる。一元論における﹁神の慈愛﹂に対する感謝を説く部分について、二元論では、﹁卑しい神への反発﹂に逆転している場合がある。﹁神は一元論的な啓示をした﹂とする見方は、ギリシャ思想とイエスの思想に共通の思想であると見ることができる
(六)^ 初期の仏教では、宇宙には、生成と消滅を繰り返す﹁宇宙期﹂というものがあったとされている。ゴーダマ・ブッダは、何回かの宇宙期についての記憶を思い出したとされる。カッサパは、現在の宇宙期の三番目に出現した仏で、四番目はゴータマであるとされている。︵出典 ﹃原始仏典中部I﹄第81経の注3 P560 岡野︶
(七)^ 大まかにいうと、宇宙の中に生きている人間には、物質としての自然環境と、地球と重なる霊的世界が必要とされている。人間は神的栄光に向かって生きている。地球が存在するためには、恒星系が必要とされている、というものである。
(八)^ 少しわかりづらいので、本文の、神観が書いてある順番を変更し、地球に関係した部分を、最初に書いてある。
(九)^ 霊的世界には常に霊太陽が輝いているとする見解がある。︵出典﹃エマニュエル・スウェデンボルグの霊界 II ﹄中央アート出版社 2000年 今村光一訳 ︶﹁光の目なる存在﹂として、﹁輝く者﹂が、地球の霊界を創り、光の目として、維持しているという見解がある。
(十)^ 銀河系の中には、古い恒星系もあれば、新しくできた恒星系もある。そのため、古い恒星系に生まれ、先に進化した﹁輝く者たち﹂は、新しい恒星系に生まれた住みやすい惑星に新たな﹁輝く者﹂を送り出すとも考えられる。
(11)^ ﹁輝く者﹂の王国︵現実としての天地万物︶の創造は、神的次元の創造に比べて、物質次元も含まれているので、高次元の神の光を、より輝かせ、これを希求する心の修行の世界となっているようである。
(12)^ 物質の宇宙において、銀河に存在する恒星系でいうと、この太陽系とそこにある霊界が、﹁輝く者︵救い主︶の王国﹂にあたるといえる。これは、霊界には沈まない太陽が、常にあるというような霊界記述と関連していると見ることができる。
(13)^ ゴータマ・ブッダは、最初の人間は8万年生きたとしている︵出典﹃原始仏典中部I﹄第81経の注3 P560 岡野︶。その見方からすると、﹁不死の人間の初子﹂とは、最初の人類のことであり、それらの人は長く生きた、と解釈することができる。
(14)^ ﹁輝く者﹂として、﹁すべてを生じさせる者﹂は、この世の神的世界に多くの天使をつくったと解釈できる。
(15)^ 神の王国については、﹁人の子の王国﹂と﹁人の子の子の王国﹂とが同一視されている記述がある。したがって、王国の王には、ひとりの友がいて連結しているとされるのも、同じ構図をしているものと考えられる。また、﹁救い主﹂についても、﹁人の子﹂が救い主であるとする記述と﹁人の子﹂の子が救い主であるという記述とがある︵出典﹃ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡﹄解説エウグノストス 岩波書店 1998年 P509︶。おそらく、人間の側から見ると、救い主の生命の深いところに幾人かの救い主が存在するのではないかと考えられる。
(16)^ ﹁人の子﹂については、﹁父のうちにあらわれた子﹂とされているので、父に固有の属性を保持していると考えられるその﹁人の子﹂が、﹁輝く者﹂を創造し、﹁輝く者﹂が、その分霊である賢者を、生み出すと見ることができる。
(17)^ イエスの場合は、﹁人の子の子・輝く者﹂が新しい文明創造のために作り出した﹁救い主の子︵神の分霊︶﹂であるとあてはめることができる。この意味からすると、イエスは、﹁はじまりの救い主が創り出した西洋文明の救い主﹂であると言い換えることができるようだ。
(18)^ ﹁生まれざる者﹂という概念は、宇宙開闢の前から存在していた存在を指しており、物質宇宙の背後に想定される﹁遍在的な神﹂であるといえる。無限ということがどういうものであるかよくわからないように、無限で、最初から遍在的な神というものは、想像しづらいといえる。逆に、﹁至高者﹂については、そういう名の偶像もあることから、偶像的な形をした一点集中型の神の姿を考えやすい
(19)^ これらは、現在の宇宙をエネルギー体と見た場合の二つの姿、﹁見えないエネルギー﹂と、﹁物質化されたエネルギー﹂のことを言い表したものと考えることができる
(20)^ 似像というのは、人格的な見えない宇宙を指すといえる。鏡を見るというのは、内的な意識の発信を、物質を用いて外側から受け取ることを意味している。そこから、﹁鏡見の存在﹂というのは、物質的な次元に人格として投影されたエネルギーと見ることができる
(21)^ 文字通りこれらのものを、神とは別の存在と解釈した場合、矛盾が生じてくるとされている。人格的に表現されたこれらを、神の内部にある神存在、神の存在を多面的なものと考えて、いろいろな法的存在、次元について名づけられたものと見ると、矛盾が少ないようだ
(22)^ 現在の宇宙を、﹁生まれざる者﹂が創ったとするならば、地球環境とその霊界を整備する者が、(3)の、﹁輝く者﹂であるといえる。﹁生まれざる者なる父の子﹂は、銀河と恒星系を生み出す働きに関係している存在であると想定することができる。
(23)^ これは、物質宇宙に生まれる銀河が多数出現したものであると解釈できる。すべての銀河が、﹁原父の子ら﹂であるとした場合、天の川銀河の中心にも意識界における遍在的な中心が、存在していると解釈することができる。
(24)^ ﹁人﹂が存在するためには、﹁太陽系と地球﹂に類する環境が必要である。そのため、この原理は、宇宙における銀河系と恒星系の出現と結びついていると考えることができる。銀河に存在する無数の銀河系の中心には、人間存在として物質世界に出現することができる人格的な存在がいると見ることができる。人の子の意識が、遍在的・無限大であるとするならば、原初の銀河団において、はじまりの銀河の中心に、遍在的な中心が現れたと見ることができる。
(25)^ 地球を中心に考えると、地球の属する恒星系・銀河系・宇宙全体の遍在的中心に、無限大の意識を持つ人格的な存在が多重的に存在すると、想定されることとなる。
(26)^ ﹁不死の人間﹂に関連したこととして、初期仏教では、最初の頃の人間は8万年生きたとされている︵出典 ﹃原始仏典中部I﹄第81経の注3 P560 岡野︶。
(27)^ 神の王国をつくる際に必要となる、国土生成の英知や真理性・思考などの属性︵法則的側面︶は、それぞれ独立性を持った法的存在としておのおの個別に存在しているとされる。
(28)^ ﹁深さの人間﹂というのは、﹁他よりも深い次元に偏在する人格的存在﹂、と解釈することができる。
(29)^ ﹁ひとりの友﹂は、人の子と天使長たちをつなぐ位置にあると見ることができるので、大天使長のようなものと考えられる。
出典[編集]
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 III解説エウグノストス P505 小林
- ^ a b 出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説エウグノス P503 小林
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説 イエスの知恵 P388 小林
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 P325 (5:19~5:28)
- ^ エウグノストス9:21~10:2
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 エウグノストス 岩波書店 1998年 (9:21~10:2)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 エウグノストス 岩波書店 1998年 P323 (4:8~23)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 エウグノストス 岩波書店 1998年 P323
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』エウグノストス 岩波書店 1998年 P326(5:23~6:4)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』エウグノスト 岩波書店 1998年 P327 (6:14~7:2)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』エウグノストス 岩波書店 1998年エウグノストス(6:14 ー7:2)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』エウグノストス 岩波書店 1998年 P327 (6:14~7:2)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年P385 解説イエスの知恵 小林