エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク
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エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク Engelbert-Maria von Arenber | |
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第9代アーレンベルク公 第15代アールスコート公 | |
在位 | 1875年3月28日 - 1949年1月15日 |
出生 |
1872年8月1日 オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク郊外ビュルグルシュタイン、アーレンベルク城 |
死去 |
1949年1月15日(76歳没) スイス、ローザンヌ |
配偶者 | エドウィッジ・ド・リーニュ |
子女 |
エンゲルベルト・カール エーリク リーディア |
家名 | アーレンベルク家 |
父親 | アーレンベルク公エンゲルベルト・アウグスト |
母親 | エレオノール・フォン・アーレンベルク |
エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク︵Engelbert-Maria von Arenberg, 1872年8月10日 - 1949年1月15日︶は、ドイツ=ベルギー系の大貴族、シュタンデスヘル。第9代アーレンベルク公爵。第15代アールスコート公爵、第4代メッペン公爵、第4代レックリングハウゼン侯。
生涯[編集]
アーレンベルク公エンゲルベルト・アウグストとその妻のアーレンベルク公女エレオノールの間の第3子、長男としてザルツブルク郊外ビュルグルシュタインのアーレンベルク城︵アランベール城︶で誕生。正式な洗礼名はフランス語でアンジェルベール・プロスペル・エルンスト・マリー・ジョゼフ・ジュール・バルタザール・ブノワ・アントワーヌ・エレオノール・ロラン︵Engelbert Prosper Ernst Marie Joseph Jules Balthasar Benoit Antoine Eleonore Laurent︶。一族の所有するブリュッセル市街のエグモント宮殿、ルーヴェン郊外ヘヴェルレーのアーレンベルク城︵アランベール城︶、エノー州アンギャンのアンギャン城を行き来しながら育った。 プロイセン王国軍陸軍士官に任官し、1889年から1893年までミュンスター駐屯の第4胸甲騎兵連隊に所属、1893年から1896年までベルリン駐屯の近衛胸甲騎兵連隊に所属。第一次世界大戦中は陸軍第7視察部所属の陸軍少将を務めた。 エンゲルベルト・マリアは3歳で父を亡くすと同時に公爵家の莫大な資産・所領を相続しており、所領の中心はエムスラント︵現在のノルトライン=ヴェストファーレン州︶の広域にわたる森林地であった。1903年にはミュンスターラントのノルトキルヒェン城を購入した。1909年から1912年まで、リューディンクハウゼン=ヴァーレンドルフ=ベックム選挙区選出、中央党所属であるドイツ帝国議会議員を務めた。1903年から1918年までプロイセン貴族院の世襲議員席を占め、1917年から1919年年までヴェストファーレン州議会議員も務めた。あるジャーナリストは1913年、エンゲルベルト・マリアについて﹁ヴェストファーレン州では最も裕福な大地主であり、その富の大きさは突出している﹂と書いている。エンゲルベルト・マリアは6300万マルクと見積もられた資産を贅沢に消費した。第1次世界大戦後はドイツを出国してミラノで生活した。1949年に病に倒れ、療養先のローザンヌで死んだ。 エンゲルベルト・マリアは先祖伝来の所領や工場、鉱山などを経営・管理し、1928年から1932年の4年間にアーレンベルク=メッペン社、アーレンベルク=ノルトキルヒェン社、アーレンベルク=レックリングハウゼン社、アーレンベルク=シュライデン社、アーレンベルク=デュッセルドルフ社の5つの有限会社を設立した。これらの企業体の社員は最初、エンゲルベルト・マリアの3人の子供だけで構成されていた。彼はまた、同時期に数多くの社会福祉施設を創設した。1919年にメッペンの、1927年にレックリングハウゼンの名誉市民となった。子女[編集]
1897年10月14日にブリュッセルで、リーニュ公女エドウィッジ︵1877年 - 1938年︶[1]と結婚した。公爵夫妻は3人の子をもうけたが、子供たちにはいずれも実子がなかった。 ●エンゲルベルト・カール︵アンジェルベール・シャルル︶・マリー・アンリ・アントワーヌ・フランソワ・プロスペル・エルネスト・ガスパール︵1899年 - 1974年︶ - 第10代アーレンベルク公爵、1939年ヴァレリー・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン[2]と結婚︵1953年死別︶、1955年マティルド・カレと再婚 ●エーリク・シャルル・オーギュスト・エドウィッジ・アンジェルベール・アントワーヌ・バルタザール︵1901年 - 1992年︶ - 第11代アーレンベルク公爵、1949年マリー=テレーズ・ド・ラ・ポエズ・ダランブル[3]と結婚 ●リーディア・エドウィッジ・エレオノール・シャルロット・マリー・メルシオール・アントワネット・ジョゼフィーヌ︵1905年 - 1977年︶ - 1928年ピストイア公フィリベルトと結婚 1992年の次男エーリクの死後、エンゲルベルト・マリアの姉ソフィー︵1871年 - 1961年︶とその夫で従兄のジャン=バティスト︵1850年 - 1914年︶の孫ジャン=エンゲルベルト︵1921年 - 2011年︶[4]が家督を継いで第12代アーレンベルク公爵となった。翌1993年、ジャン=エンゲルベルトのアーレンベルク公爵位は、ベルギー貴族の爵位として認められた。脚注[編集]
(一)^ リーニュ公ウジェーヌ1世の三男シャルル=ジョゼフ=ウジェーヌ公子︵1837年 - 1914年︶の長女。弟アンリ=フロラン=ラモラル・ド・リーニュはラ・トレモイユ家の女子相続人との結婚を通じて、エルサレム王位の請求権を継承したと見なされている。 (二)^ シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公アルベルトの非嫡出子。1938年に弁護士エルンスト・ヨハン・ヴァーグナーと離婚後、エンゲルベルト・カールと再婚。1953年自殺。 (三)^ モンテ・カッシーノの戦い︵1944年︶で戦死したフランス陸軍軍人アンリ・ド・ベルザンス侯爵の未亡人で、前夫との間の2人の子レティティアとロドリーグはエーリクの養子となった。レティティアはトスカーナ大公家家長ジギスムントの母で、ウルグアイで自動車・バイクの輸入会社を経営している。 (四)^ ジャン=エンゲルベルトはバイエルン王太子ループレヒトの末娘ゾフィー・フォン・バイエルン︵1935年 - ︶と結婚した。参考文献[編集]
●Die Arenberger im Emsland. Sögel 2003. ●Franz-Josef Heyen, Hans Joachim Behr (Hrsg.): Die Arenberger. Geschichte einer europäischen Dynastie. Band 2: Die Arenberger in Westfalen und im Emsland. Koblenz 1990. ●Arenberg-Meppen GmbH (Hrsg.): Arenberg 2003. Aspekte aus 200 Jahren Arenberg-Meppen und 100 Jahren Arenberg-Nordkirchen. Meppen 2003. ●Bernt Engelmann: Das Reich zerfiel, die Reichen blieben. Hamburg 1972, S. 118, 277. (Daten zum Vermögen nach Rudolf Martin: Jahrbuch des Vermögens und Einkommens der Millionäre im Königreich Preußen, Berlin 1913)外部リンク[編集]
- Herzog von Arenberg, Engelbert Maria - Datenbank der Reichstagsabgeordneten
- Arenberg Foundation
- Abbildung von Engelbert-Maria von Arenberg
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