オーガスタス・ハリス
サー・オーガスタス・ハリス Sir Augustus Harris | |
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生誕 |
Augustus Henry Glossop Harris 1852年3月18日 フランス、パリ |
死没 |
1896年6月22日 (44歳没) イングランド、フォークストン(Folkestone) |
職業 | 俳優、インプレサリオ、劇作家 |
活動期間 | 1873年 – 1896年[1] |
配偶者 |
フローレンス・エッジカム (Florence Edgcumbe、1881年 – 1896年) |
サー・オーガスタス・ヘンリー・グロソップ・ハリス︵Sir Augustus Henry Glossop Harris、1852年3月18日 - 1896年6月22日︶は、フランス出身の俳優、オペラ興行主︵インプレサリオ︶、劇作家。
ロンドン、ブロンプトン墓地にある墓標。
ハリスを記念したシアター・ロイヤルの噴水盤。
ハリスは晩年、政治に関心を寄せ、1890年にはストランド(Strand)地区から選出され、ロンドン・カウンティ・カウンシル(London County Council)の議員になった[1]。ハリスは、翌1891年には、州長官に任命され[1]、シティ・オブ・ロンドンの副統監(deputy lieutenant of the city of London)となった。1891年に、ハリスは下級勲爵士(Knight Bachelor)の称号を授与され、エキセントリック・クラブ(Eccentric Club)の議長となった。
ハリスは、1896年にイングランド南東部ケント州フォークストン(Folkestoneで死去し、ロンドンのブロンプトン墓地(Brompton Cemetery)に埋葬された[3]。
生い立ち[編集]
ハリスは、フランスのパリで、やはり劇作家であった同名の父オーガスタス・グロソップ・ハリス︵Augustus Glossop Harris、1825年 - 1873年︶と、その妻で劇場の衣装担当であった旧姓マリア・アン・ボーン(Maria Ann Bone)の間の息子として生まれた。少年時代をイングランドのロンドンで過ごし、12歳で学校に行くためパリに戻った[1]。その後、パリとハノーヴァーに学んだ[2]。経歴[編集]
俳優の道を志したハリスは、1873年には、マンチェスターのシアター・ロイヤル (Theatre Royal)で﹃マクベス﹄のマルカムを演じた[2]。やがてバリー・サリヴァン(Barry Sullivan))の下で働くようになり、さらにロンドンのシアター・ロイヤル(Theatre Royal)の支配人ジェームズ・ヘンリー・メイプルストン(James Henry Mapleson)の下で舞台主任を務めることになった[2]。この劇場は、ロンドンのドルリー・レーンにあり﹁ドルリー・レーン劇場 (Drury Lane Theatre)﹂とも通称されていた。 1879年から、ハリスはシアター・ロイヤルの支配人となり、﹁現代パントマイムの父﹂、﹁アウグストゥス・ドルリオラヌス (Augustus Druriolanus)﹂︵ドルリー・レーンをもじったラテン語風の渾名︶などと称された。ハリスは、ジャン・ド・レスケ(Jean de Reszke)、ネリー・メルバ、エマ・イームス(Emma Eames)、エマ・カルヴェ(Emma Calvé)を世に出した。ハリスの最初のパントマイムの演目は﹃青ひげ﹄、その次は﹃40人の盗賊 (The Forty Thieves)﹄であった。 1887年から、シアター・ロイヤルでグランド・オペラの興行を始め、その成功を受けて、以降、オペラの興行に力を入れた[2]。劇作[編集]
●The World - ポール・ジョン・メリット︵Paul John Meritt、1843/4年 – 1895年︶、ヘンリー・ペティット(Henry Pettitt)との共作。ドルリー・レーンで1880年に上演。 ●Youth - メリットとの共作。1881年。 ●Pluck: A Story of ₤50,000 - ペティットとの共作。ドルリー・レーンで1882年に上演。 ●A Sailor and His Lass - ロバート・ウィリアム・ブキャナン(Robert Williams Buchanan)との共作。1883年。 ●Human Nature - ペティットとの共作。1885年。 ●A Run of Luck - ペティットとの共作。1886年。 ●Pleasure - メリットとの共作。1887年。 ●The Spanish Armada - ヘンリー・ハミルトン(Henry Hamilton)との共作。1888年。 ●The Royal Oak - ハミルトンとの共作。1889年。後に1923年の同名の無声映画の原作となった。 ●A Million of Money - ペティットとの共作。ドルリー・レーンで1890年に上演。 ●A Life of Pleasure - ペティットとの共作。1893年。 ●Dick Whittington - セシル・レイリー(Cecil Raleigh)、ハミルトンとの共作。 ●Robinson Crusoe - 1893年。 ●Cheer, Boys, Cheer - レイリー、ハミルトンとの共作。1895年。 ●The Little Genius - アーサー・スタージェス(Arthur Sturgess)とドイツ語から翻案。 ●The Soudan - ペティットとの共作。 ●The Derby Winner - ハミルトン、レイリーとの共作。1895年。合衆国では The Sporting Duchess という題で上演された。後に1915年と1923年の同名の無声映画の原作となった。 ●Jack and the beanstalk, or, Harlequin and the midwinter night's dream - ハリー・ニコルス(Harry Nicholls)との共作。 ●The Opera Cloak - L・D・パウルズ(L. D. Powles)とフランス語から翻案。 ●A Puzzled Painter - フランシス・クレメント・フィリップスとの共作。死後出版。 ●The Prodigal Daughter - ペティットとの共作。ドルリー・レーンで1892年に上演。 ●Burmah - ペティットとの共作。ブロードウェイで1896年に上演。晩年[編集]
私生活[編集]
1881年11月9日、ハリスはフローレンス・エッジカム・レンドルと、ケンジントンのレッドクリフガーデンズ(Redcliffe Gardens)にある聖ルーク教会で結婚式を挙げた。花嫁を引き渡したのは兄フランシス・レンドル(Francis Rendle)であった。式は内輪に行なわれ、挙式後すぐに2人は10時発の急行列車でパリに向かった[4]。サー・オーガスタスの死後、フローレンスは1904年10月24日にエドワード・オコナー・テリー(Edward O'Connor Terry)と再婚し、バーンズ(Barnes)で挙式して、その後も当地に住み続けた[5]。フローレンスは1914年9月5日に没した。遺産[編集]
ドルリー・レーンのシアター・ロイヤルには、公的資金によって作られたハリスを記念する噴水盤があり、フリーメイソンであったハリスにちなんで、メイソンの様々なシンボルが施されている。出典・脚注[編集]
(一)^ abcd“Manager Harris Dead” (PDF). The New York Times. (1896年6月23日) 2009年8月21日閲覧。
(二)^ abcd“HARRIS, SIR AUGUSTUS GLOSSOP”. JewishEncyclopedia.com. 2012年2月11日閲覧。
(三)^ “Sir Augustus Henry Glossop Harris”. Find A Grave. 2012年2月11日閲覧。
(四)^ The Era, 12 November 1881
(五)^ The Penny Illustrated Paper and Illustrated Times, October 29, 1904
外部リンク[編集]
- ウィキメディア・コモンズには、オーガスタス・ハリスに関するカテゴリがあります。
- オーガスタス・ハリスの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- オーガスタス・ハリス - IMDb(英語)
- オーガスタス・ハリス - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)
- Portrait
- Biography at the Jewish Encyclopedia
- オーガスタス・ハリス - Find a Grave(英語)
- Frederic, Harold (1896年7月5日). “Harris was all manager” (PDF). The New York Times