カマルッディーン
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カマルッディーン︵? - ?︶は、東チャガタイ・ハン国︵モグーリスタン・ハン国︶の君主︵在位‥1365年? - 1389年?︶[注 1]。ドゥグラト部の出身。
生涯[編集]
ドゥグラト部の貴族︵アミール︶プラジはトゥグルク・ティムール・ハンの擁立に貢献した人物であり、カマルッディーンはプラジの兄弟にあたる。プラジはハーンに次ぐ権力を持つウルス・ベギ職に就いており、プラジの死後、彼はウルス・ベギ職の継承をトゥグルク・ティムールに要求した。しかし、ウルス・ベギ職はプラジの幼少の子ホダーイダードに継承され、その決定に不満を持った彼はトゥグルク・ティムールの死後、その子のイリヤース・ホージャを暗殺してハンを僭称した。 即位後、施政においては自身よりも高位にある兄のシャムスッディーンの意見を尊重したという[1]。 1389年までに6度にわたってティムールの攻撃を受けるが、ティムールの軍が退却する都度勢力を回復した[2]。1388年ごろに成長したホダーイダードがイリヤース・ホージャの兄弟のヒズル・ホージャを擁立すると、ジョチ・ウルスのトクタミシュと連合する[3]。1389年にティムールはモグーリスタンに対して本格的な遠征を行い、ティムールの軍はモグーリスタンの中心部、さらにはウイグルスタンのトルファンにまで達した[4]。翌1390年にカマルッディーンは再びティムール軍の攻撃を受けるとカマルッディーンは首都のアルマリクを放棄して逃走し、アルタイ山脈で消息を絶った[5]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 川口﹃ティムール帝国支配層の研究﹄、230-231頁、﹁ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響﹂140頁。小松久男は編集に携わった﹃中央ユーラシア史﹄︵新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月︶と監訳を務めた﹃トルキスタン文化史﹄︵V・V・バルトリド, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月︶掲載のモグーリスタン・ハン国の系図において彼をハーンに含めている。ただし、﹃中央アジア史﹄︵江上波夫, 世界各国史, 山川出版社, 1987年1月︶・﹁モグリスタン﹂﹃アジア歴史事典﹄9巻︵佐口透, 平凡社, 1959年︶、54-55頁など、書籍・事典によっては彼をハーンに数えない場合もある。出典[編集]
(一)^ 川口﹃ティムール帝国支配層の研究﹄、230-231頁 (二)^ ラフマナリエフ﹁チムールの帝国﹂﹃アイハヌム 2008﹄、25-27頁 (三)^ 川口﹁ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響﹂﹃北海道武蔵女子短期大学紀要﹄40、141頁 (四)^ ラフマナリエフ﹁チムールの帝国﹂﹃アイハヌム 2008﹄、27頁 (五)^ ラフマナリエフ﹁チムールの帝国﹂﹃アイハヌム 2008﹄、28頁参考文献[編集]
●江上波夫﹃中央アジア史﹄︵世界各国史, 山川出版社, 1987年1月︶ ●川口琢司﹃ティムール帝国支配層の研究﹄︵北海道大学出版会, 2007年4月︶ ●川口琢司﹁ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響﹂﹃北海道武蔵女子短期大学紀要﹄40収録︵北海道武蔵女子短期大学, 2008年3月︶ ●ルスタン・ラフマナリエフ﹁チムールの帝国﹂﹃アイハヌム 2008﹄収録︵加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月︶関連項目[編集]
●チンギス統原理
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