サロメ (アンティパトロスの娘)
サロメ שלומית | |
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在位 | 紀元前4年 - 紀元後9年から12年までの間[1] |
配偶者 | ヨセフ(ヘロデの叔父)[2] |
コストバル[2] | |
アレクサス[2] | |
子女 | ベレニケ、アンティパテル(いずれもコストバルとの子)[2] |
王朝 | ヘロデ朝 |
父親 | アンティパトロス |
サロメ︵Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית︶は、古代パレスチナの王ヘロデ大王の妹。
なお、洗礼者ヨハネの処刑の話やこれを基にした戯曲﹃サロメ﹄に出てくる﹁サロメ﹂は彼女のひ孫にあたる。
ヘロデ大王の死後、その息子のヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・アンティパス、ヘロデ・フィリッポス達3人の甥とともにパレスチナを四分割︵ただしサロメの領地は甥に比べるとかなり小さくいくつかの都市[3]のみである︶統治した。彼らを﹁王﹂ないし﹁女王﹂とするのは俗称で、歴史学上は︵テトラルキア τετραρχια ︶と呼び、四分領太守、四分封領主と訳される。
サロメは兄の死後12~14年ほど生き[1]、死後自分の財産を皇后ユリアに寄贈した︵﹃ユダヤ古代誌﹄第XVIII巻2章2節より︶。
娘ベレニケはヘロデ大王の息子アリストブロス4世と結婚し、アグリッパ1世やヘロディアの母となった。
脚注[編集]
(一)^ ab﹃ユダヤ古代誌﹄第XVIII巻2章2節に﹁︵ユダヤ総督︶アムビブロス︵表記ゆれで﹁アンビブルス﹂とも︶の在任中に王ヘロデの妹のサロメが亡くなった﹂という記述があり、別の記録からアムビブロスの在任期間が西暦9-12年頃とされているのでサロメの死亡時期はこの間である。
E・シューラー﹃イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II﹄、小河陽 訳、株式会社教文館、2012年、ISBN 978-4-7642-7352-8、P65・108。
(二)^ abcdE・シューラー﹃イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II﹄、小河陽 訳、株式会社教文館、2012年、ISBN 978-4-7642-7352-8、P427 補遺VIII﹁ヘロデ家家系図﹂。
(三)^ ﹃ユダヤ古代誌﹄第XVII巻11章でヘロデの領土分配の説明があり、彼女の支配地はヤムニア・アゾトス・ファサエロスなどの町とそこの付属の土地、並びにアスカロンの王宮などであった。