ジョルジュ・マティアス
ジョルジュ・アメデ・サン=クレール・マティアス | |
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基本情報 | |
生誕 | 1826年10月4日 |
出身地 | フランスパリ |
死没 | 1910年10月14日(84歳没) |
学歴 | パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ジョルジュ・アメデ・サン=クレール・マティアス︵Georges Amedee Saint-Clair Mathias, 1826年10月14日 - 1910年10月14日︶は、フランスのパリ生まれのピアニスト・ピアノ教師・作曲家。12歳でショパンの数少ない男性の弟子となり、その神童ぶりからクララ・シューマンに﹁第2のリスト﹂と呼ばれた[1]。
生涯[編集]
1826年、パリでドイツ人の父親、ポーランド人の母親との間に生まれる。プライヴェートでフリードリヒ・カルクブレンナーにピアノと作曲を師事した後、1838年にフレデリック・ショパンに師事する。ショパンへの師事期間はさまざまな諸説があるが、最低5年は師事したとされている。 1842年、パリ音楽院作曲家に登録してアンリ・モンタン・ベルトンのクラスで学び[1]、フランソワ・バザンとジャック・アレヴィに作曲を師事する。1847年に対位法・フーガで第1次席を獲得、翌年にロ ーマ大賞第2等の第2席を得た[1]。1850年に︽アレグロ・アパッショナート︾第1番 作品5を出版。 1862年、練習曲集︽様式と メカニスムの特別な練習曲集︾290作品28を出版、音楽院の教材に採用される。同年、同音楽院ピアノ科のローラン教授︵Adolphe-François LAURENT、1796-1867︶の引退にともなう後任として、ロッシーニ、トロロン︵Raymond-Theodore Troplong、政治家︶、アドルフ・ティエールらの支持を得、任命権を持つ同じポーランド系の国務大臣アレクサンドル・ヴァレフスキとその妻へ書き送った嘆願書などが功を奏し、古参の候補者を抑えて33歳で就任し、1893年まで務める[1]。 1872年、レジオンドヌール勲章を受賞。 1910年10月14日、パリで逝去︵84歳︶。作品[編集]
- 様式とメカニズムの特別な練習曲 Op.28
- ピアノ三重奏曲第6番 Op.60
門下生[編集]
外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d パリ国立音楽院とピアノ科における教育(1841~1889) : 制度、レパートリー、美学上田 泰、東京芸術大学学位論文、2016-03-25