テオドロ・デュクレール
テオドロ・デュクレール Teodoro Duclère | |
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1867年ころのデュクレール | |
誕生日 | 1812年5月24日 |
出生地 | ナポリ |
死没年 | 1869年 |
死没地 | ナポリ |
カルロ・テオドロ・デュクレール︵Carlo Teodoro Duclère、1812年5月24日 - 1869年︶は、フランス生まれの父親を持つイタリアの画家である。ナポリの海辺の街、ポジリポなどで風景を描いた﹁ポジリポ派︵Scuola di Posillipo︶﹂の画家の一人である。
略歴[編集]
ナポリで生まれた。父親は1788年頃にフランス、セーヌ=エ=マルヌ県で生まれた人物である。父親はナポレオン戦争でフランス軍とイタリアに入って来て、ローマでイタリア女性と知り合い、結婚してナポリに住み、税関の職員として働き安定した暮らしをした[1] 。 テオドロ・デュクレールは早くから美術に興味を持ち、オランダ生まれの画家ピトルー (Antonie Sminck Pitloo) の私塾で学び、入学年齢に達すると、ピトルーが教授を務めていたナポリ美術アカデミーに入学した。1829年からアカデミーの絵画コンクールに参加し、この頃サルヴァトーレ・フェルゴーラ︵1796-1874︶やジャチント・ジガンデ︵Giacinto Gigante: 1806–1876︶といった﹁ポジリポ派﹂の画家たちから影響を受けた[2] 。 アカデミーを卒業した後、南イタリアを旅し、シチリアやプッリャ州、カンパニア州を訪れた後、ナポリに戻り、1838年に師匠のピトルーの娘と結婚した。 ナポリで美術家として成功した。1849年3月に革命派の政治家パオロ・エミリオ・インブリアーニ︵Paolo Emilio Imbriani︶に依頼されて、美術アカデミーの改革委員会の委員に選ばれた。南イタリアが、1861年にイタリアに統一された後、いくつかの公的な仕事に参加した[1]。 1869年にナポリで亡くなった。作品[編集]
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メルジェリーナ港(ナポリ)
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ヴェスヴィオ山とナポリの眺め
脚注[編集]
- ^ a b Museo Correale, "Chi era Teodoro Duclère?" @ Con-Fine.com
- ^ Biography of Duclère by Luciana Soravia. from the Dizionario Biografico degli Italiani @ Treccani
参考文献[編集]
- Anna Caputi, Raffaello Causa, Raffaele Mormone (Eds.), La Galleria dell'Accademia di Belle Arti in Napoli, Banco di Napoli, 1971
- Isabella Valente, La scuola di Posillipo. La luce che conquistò il mondo, Mediterranea Edizioni, Napoli, 2019 ISBN 978-88-94260-51-9