トーマス・栗原
Thomas Kurihara トーマス・栗原 | |
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本名 | 栗原 喜三郎 くりはら きさぶろう |
別名義 | 栗原 トーマス くりはら トーマス |
生年月日 | 1885年1月24日 |
没年月日 | 1926年9月8日(41歳没) |
出生地 | 日本 神奈川県中郡秦野町 |
国籍 | 日本 |
職業 | 俳優、映画監督 |
ジャンル | サイレント映画 |
活動期間 | 1912年 - 1926年 |
トーマス・栗原︵トーマス・くりはら、1885年︿明治38年﹀1月24日 - 1926年︿大正15年﹀9月8日︶は、ハリウッドで活躍した日本人俳優であり、帰国してわずか1年数か月で30本の作品を残した無声映画時代の日本の映画監督である。本名は栗原 喜三郎︵くりはら きさぶろう︶。栗原 トーマスとも。
来歴・人物[編集]
1885年︵明治18年︶1月24日、神奈川県中郡秦野町︵現・秦野市︶に、材木商の子として生まれた。 父の事業の失敗を見て、単身渡米。1912年︵明治45年︶、27歳のときに映画俳優養成所に入り、エキストラとして映画出演後、トーマス・H・インスと契約を結び、早川雪洲、青木鶴子、木野五郎らと日本を題材とした映画に出演した。そのうち桜島の大正大噴火を題材とした大作映画﹃火の海﹄︵1914年︶では村の予言者を演じた[1]。 日本での映画製作を志し、1918年︵大正7年︶、帰国する。1920年︵大正9年︶4月、35歳のとき、知人の浅野良三︵浅野財閥創始者の子息︶が横浜・山下町に設立した、﹁撮影所﹂をもつ映画会社・大正活動写真︵のちの大正活映︶に、撮影所長兼監督として入社する。その第1回作品﹃アマチュア倶楽部﹄の監督を務め、同作は同年11月19日に公開になる。1922年︵大正11年︶の初頭に﹁大活﹂が製作を中止するまでの1年あまりで、劇映画、ドキュメンタリー含めて、30本もの作品を監督した。彼の教えを受けたものは数多く、監督の内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、俳優の岡田時彦、江川宇礼雄、葉山三千子、渡辺篤らがいる。﹁大活﹂で初めて映画界に入り、のちに映画監督になった者も、最初のキャリアは、栗原同様、﹁俳優﹂から始めたのだった。 その後、生来の持病が悪化し、1926年︵大正15年︶9月8日に死去。満41歳没。フィルモグラフィ[編集]
栗原のほとんどのフィルモグラフィは﹁大活﹂のそれと一致する。大正活映#フィルモグラフィに栗原の﹁大活﹂時代のそれが網羅されているので参照のこと。- 『アマチュア倶楽部』 : 1920年 - 監督デビュー作
- 『美しき日本』 : 1920年
- 『葛飾砂子』 : 1920年
- 『雛祭の夜』 : 1921年
- 『蛇性の淫』 : 1921年
- 『舌切雀』 : 1923年
- 『久遠の響』 : 1923年 - 遺作[2]
脚注[編集]
関連事項[編集]
外部リンク[編集]
- Kisaburo Kurihara - IMDb(英語)