ノートルダム大聖堂 (フルヴィエール)
フルヴィエールのノートルダム大聖堂、あるいはフルヴィエール大聖堂︵ Basilique Notre-Dame de Fourvière ︶は、フランス・リヨンのフルヴィエールの丘にあるバシリカ式教会堂。
献金により、1872年から1896年にかけて、街を見下ろす位置に建てられた。パリのサクレ・クール寺院同様、1870年のリヨン・コミューンにおける、社会主義勢力に対するキリスト教勢力の勝利の象徴となっている[1]。
ピエール・ボッサン Pierre Bossan による設計は、ロマネスク建築とビザンチン建築、2つの建築様式の特徴を備え、当時としてはまれなことにゴシック建築様式は採用されなかった。
すばらしいモザイク、ステンドグラス[2]、
及び使徒ヨハネのクリプトを特徴とする。
バシリカではガイドツアーも催行されており、聖美術館 Museum of Sacred Art も含めると年間150万人の訪問客を迎える[3]。
ボッサンによるバシリカの最初の設計は、1843年のペスト流行200年記念に続く1846年に遡ると思われる。
この時彼はパレルモにいた[4]。
ノートルダム大聖堂が建つ土地は、かつてはトラヤヌスによる古代ローマのフォルム﹁フォルム・ウェトス forum vetus ﹂であり、その名前の由来となっている。
フルヴィエールの丘の頂上にバシリカは印象的にそびえたっており、リヨンの街のいたるところから眺めることができる。
結果的に、フルヴィエール大聖堂はリヨンの街の象徴となった。
バシリカは主要な塔4基、鐘楼1基を備え、最上部に金色の聖母マリア像を頂く。
特定の時間にはバシリカの北塔に上ることができ、そこにはリヨンの街とその郊外の眺望が180度開けている。
アプスの東端と鐘楼
フルヴィエール大聖堂は実際には2つの教会からなり、1つの教会の上にもう1つの教会がある。
上側のサンクチュアリはたいへん装飾的であるが、一方下側は非常に簡素なデザインである。
フルヴィエールは聖母マリアに奉献されている。
1643年のペスト流行からリヨンの街が救われたことを感謝して小さな教会堂が建てられ、19世紀中ごろには200周年を記念して、金の聖母マリア像が捧げられた。
毎年12月8日︵無原罪の聖母の祝日︶、リヨンは街の救済を聖母マリアに感謝して街中にキャンドルをともし、これは﹁光の祭典 Fête des Lumières ﹂と呼ばれている。
夜のバシリカ
普仏戦争では、プロイセンの軍隊はパリを陥落させ、リヨンに向かって南進していた。
教会で再び聖母マリアに祈りを捧げると、軍隊は停止し撤退していった。
勝利を祝してバシリカの建設が1872年に始まり、1884年に完成した。
内装の完成にはさらに時間を要し、最終的な完成は1964年になった。
1982年には、ラジオ・フルヴィエール︵ fr:Radios chrétiennes francophones の前身︶のアンテナが塔に立てられている。
フルヴィエールのノートルダム大聖堂は、1998年、リヨン歴史地区の一部として、UNESCOの世界遺産に登録された。
脚注[編集]
(一)^
﹁パリとリヨンのコミューンに対する反応は、教義不滅の記念碑となるモンマルトルのサクレ・クール寺院とフルヴィエール大聖堂であり、ともに両市を見下ろしている。これらの建物は巨大な奉納物として個人献金で建設され、社会主義に対する勝利を神に感謝し、近代フランスの罪をあがなうために建てられた。﹂
"The reaction to the communes of Paris and Lyon were triumpalist monuments, the Sacré-Coeur of Montmartre and the basilica of Fourvière, dominating both cities. These buildings were erected using private funds, as gigantic ex-votos, thanking God for the victory over the socialists and in expiation of the sins of modern France."
(Bertrand Taithe 著、﹃ Citizenship and Wars: France in Turmoil, 1870-1871 ﹄ "Religious Identities and Citizenship" の章より。2001:100)
(二)^
ナチ占領中のヴィシー政権により設置されたステンドグラスの窓は、フィリップ・ペタンを表していたが、戦後取り除かれた。
The stained-glass window depicting Mershal Pétain that was installed during the Nazi occupation of Vichy France was removed after the war.
(Marianne Mahn-Lot, reviewing Renée Bedarida, Les Catholiques dans la Guerre, 1939-1945 (Hachette) 1999, in Le Mouvement social, No. 206, Au Bonheur Des Allemands Consommateurs et consommation au XXe siècle [January - March 2004:146-148] p. 147.
(三)^ Fourvière Basilica
(四)^ Bibliothèque municipale de Lyon Archived 2008年1月21日, at the Wayback Machine.