ノート:お雇い外国人
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ワープネルなどについて[編集]
今の記事のラートゲンからワープネルの8名は叙勲の形で年金報酬を得た人物ですが、庚寅五月さんからこちらのノートに、叙勲は﹁人物が雇用されていた根拠としては不十分﹂とのご意見がありました。間接的・在外でであれ日本政府要人の顧問として徴用された人物だと言えると思いますが、本記事に含めるべきではないですか。なお、8名のうちラートゲンは日本語の講義録が残っています[1]。--JOT news︵会話︶ 2017年10月15日 (日) 12:09 (UTC)
疑義を呈した庚寅五月です。議論活性化のためコメント依頼を提出し、また明治24年2月4日付官報の叙任及辞令欄を典拠として9月27日 (水) 15:16 (UTC)の投稿でJOT newsさんが加筆をされたイタリア人5名とドイツ人3名︵加筆以前から記載されているラートゲンがお雇い外国人であることに異論はありません︶に要検証テンプレートを貼付しました。JOT newsさんの会話ページでも既に述べているのですが、雇用契約の内容が示されている研究文献を提示できない人物は、Wikipedia:独自研究は載せないというウィキペディアの方針から﹁お雇い外国人﹂として記載することができないと思われます。
8名の人物は、それぞれの国に仕える公職者の立場から日本政府の活動に援助を行ったことが国立公文書館所蔵の叙勲上奏文書に記されているものの、そこに﹁雇﹂であったとする記述は見あたらない一方、雇用契約に基づく職務ではなかったことをうかがわせる﹁教示致呉﹂﹁好意ヲ以テ便宜且裨益ヲ与ヘ﹂という表現が用いられています。またJOT newsさんは8名が﹁年金報酬を得た﹂との解釈をされていますが、梅渓昇編﹃明治期外国人叙勲史料集成 別巻﹄の解説によれば、外国人は叙勲されても賞勲年金︵終身の旭日勲章年金︶を受けなかったとのことです︵23頁、34-35頁︶。賞勲年金とは別に﹁政府傭入れの外国人にして特別の勤労ありたるもの、又は政府の傭入れによらざるも日本帝国の為めに著しき功績ありたるものに対し、其終身若くは一定の年限を期して給与される﹂外国人年金があり、明治17年から23年まで予算上は賞勲年金の名目で処理されていたようなのですが︵同35-36頁︶、今回の8名がその対象者であったかはわかりません。そもそも叙勲制度は結果としての功労を事後的に表彰するものであり、雇用契約上の労働の対価と見ることには無理があると思います。8名の人物と並んで叙勲が発表されているラートゲンの場合、明治15年4月から明治23年4月まで月給370円、宿料30円︵明治18年より40円に増額︶を支払う雇用契約︵後掲﹁お雇い外国人名鑑﹂による︶があった上で、﹁明治十五年四月以来本年四月三日雇満期ニ至ル迄八ヶ年間常ニ職務ニ勉励シ学生ヲ教導スル最モ懇篤ニシテ其成績顕著タル﹂という理由で叙勲が申請されており、叙勲とは関係なく給与が支給されています。
明治初年から22年までのお雇い外国人2300名ほどを収録する﹁お雇い外国人名鑑﹂︵1975年刊﹃資料 御雇外国人﹄所収︶、主要お雇い外国人150名ほどを収録する﹁幕末明治期主要御雇外国人一覧﹂︵1984年刊﹃日本史総覧VI﹄所収︶、2013年刊﹃岩波世界人名大辞典﹄にもあたってみましたが、8名の人物は収録されておらず、現在のところ直接的に彼らを﹁お雇い外国人﹂として扱っている文献は発見できません。--庚寅五月︵会話︶ 2017年10月22日 (日) 15:01 (UTC)
私が追記した8名にはのはラートゲンは含んでおりませんで失礼いたしました。資料をお教えいただきありがとうございます。ノートのほうでお教えいただきました1868年から1877年の雇用者認可制度︵1870年5月太政官布告、外務省達・外国人雇入方心得条々︶、その後の申告制度︵1877年3月太政官第27号布告-1899年7月閣令第・外務省令︶の時期と重なるがお雇い外国人年鑑等には名前が掲載されていない、また勲等年金令と共に賞勲年金名目の外国人年金制度があったものの、上の8名は1891年記録上にあるので対象者でなかった可能性が高い、ということでしょうか。改めて関連法令を調べてみます︵その前年の外国人叙勲者も少なくないようです︶。賞勲年金は後渡しであって雇用契約によるものではない、と言われてしまうとそうかもしれないのですが、個人的には年金方式の謝礼は一般的な謝礼であるとは考え難いように思えます。賞勲局から年金支給されているほうも自然と在外の非常勤エージェント的な立場になるのではないでしょうか。--JOT news︵会話︶ 2017年10月24日 (火) 13:22 (UTC)
外国人年金は、賞勲年金とは関係なく上に引用した基準によって支給されるということですから、旭日勲章を授与された外国人に対し賞勲年金に代わって支給されるものではないはずです。したがってこれが賞勲局の所管業務であったかどうかはわかりません。JOT newsさんが前提としておられる8名の人物に年金が支給されたという解釈は裏付けが不十分であり、叙勲に付随して外国人年金が支給されていた具体的なケースが示されない限り、この解釈に基づいて彼らを﹁雇﹂と見なすことはいわゆる独自研究になってしまうということです。--庚寅五月︵会話︶ 2017年10月24日 (火) 21:09 (UTC)
﹁梅渓昇編﹃明治期外国人叙勲史料集成 別巻﹄の解説によれば﹂外国人には年金は与えられなかった…ということのようですが、庚寅五月さんはこちらのノートで出典を表示しながらも出典と異なる文章を引用されておられたことがありますので、いずれ、その書籍と梅渓昇が示す根拠を国会図書館で確認してから考えてみたいと思います。--JOT news︵会話︶ 2017年11月4日 (土) 16:35 (UTC)
その後JOT newsさんから、外国人年金に関する条規が見つかれば給与の基準がはっきりする旨のコメントがあったのですが、﹃明治期外国人叙勲史料集成 別巻﹄には、既に引用した﹁外国人年金とは、政府傭入れの外国人にして特別の勤労ありたるもの、又は政府の傭入れによらざるも日本帝国の為めに著しき功績ありたるものに対し、其終身若くは一定の年限を期して給与されるものである﹂という記述に続き、﹁しかし拠るべき法令なく、ただ政府の特約に出るもので、これが給与に関しては所管大臣の請議に基づき、上奏裁可を経て初めて確定するが、これは予算外国庫の負担となる契約であったから憲法発布以降は、まず議会の協賛を求めなければならなかった。予算上、外国人の有期年金は、明治十七年度より同二十三年度までは、﹁賞勲年金﹂の科目をもって整理された﹂とあり、文献として﹃明治財政史 第十巻﹄第三章第一部・第二部が挙げられています︵35-36頁︶。この記述のとおりであれば根拠となる法規は見つからないと思われます。なお、﹃明治財政史 第十巻﹄によれば﹁賞勲年金﹂として処理されていたのは有期年金のみで、終身年金はその間﹁文官恩給﹂として処理されていた模様です︵825頁︶。明治24年にエドアルド・キヨッソーネとウィリアム・B・メーソンへの終身年金給与が閣議決定された際に内閣恩給局が提出した意見書を見ると、原則として在官満15年以上の者に対し俸給の4分の1程度の恩給を給することを定めた﹁官吏恩給法﹂に照らして給付の条件・金額が妥当かどうかが検討されており︵﹃公文類聚第十五編 巻之四十一﹄No.17 9-10コマ︶、終身年金は特に奉職年数の長いお雇い外国人に対して支給される恩給と見てよさそうなのですが、有期年金が支給された例は明治16年に閣議決定されたエドワード・H・ハウスへのもの︵﹃自明治十五年至同十六年 公文別録 外務省﹄No.8︶以外に見つけることができず、実態がつかめません。
現状では、8名の人物が日本政府の活動に援助を行ったことは検証できますが、彼らが日本政府に雇われていたことは検証できません。雇用契約を結ばなくとも援助・協力者であれば﹁お雇い外国人﹂として位置づけるべきだ、という共通認識が歴史研究者の間にあるのであれば問題はありませんが、そのような認識が確認できない以上、8名を﹁お雇い外国人﹂として記載することは、繰り返しになりますが独自研究にあたります。加筆をなさったJOT newsさんから8名を﹁お雇い外国人﹂として扱っている文献や、雇用されていたことを裏付ける文献を示していただくことができず、また検証が必要と注記し、コメントを募って一か月以上が過ぎても他の方から文献が示されない状況で、ウィキペディアの基本方針から逸脱する記述をこのまま掲載し続けることは許容されないでしょう。8名の人物はひとまず記事から除去し、十分な裏付けが取れた段階で改めて加筆をしていただくべきと思いますがいかがでしょうか。--庚寅五月︵会話︶ 2017年12月5日 (火) 13:53 (UTC)
- 報告 提案から一か月以上が経過しましたが、異論がありませんので除去を行いました。--庚寅五月(会話) 2018年1月10日 (水) 14:07 (UTC)
お雇い外国人といえるか疑問のある人物について[編集]
分野別の人物一覧にトーマス・ブラキストンの名が挙がっていたのですが、ブラキストンは﹁お雇い外国人ではないが、その半生を日本で暮し、お雇い教師たちと交遊があった、イギリス人実業家﹂︵上野益三著﹃お雇い外国人3自然科学﹄58頁︶であるため、一覧から除去しました。また既に問題提起がなされている叙勲を根拠とする人物以外にも、以下の人物は﹁お雇い外国人﹂といえるのか疑問であり、要出典・要検証テンプレートを貼付しました。歴史辞典などを見ても﹁お雇い外国人﹂の定義が明瞭であるとはいえないようなのですが、少なくとも日本の中央・地方政府もしくは私人と雇用契約を交わしている必要があり、直接そのことを示す研究文献を提示できない人物は除去すべきだと思います。
●フレデリック・ベルデル︵Frederic Bereder︶ - 2006年8月2日 (水) 07:12 (UTC)の投稿で建築・土木・交通セクションにフランス人として追加された人物。日本でも活動している現代のフランス人建築士がおられるようですが[2]、歴史上の人物は確認できませんでした。
●ウォルター・ウェストン - 2012年2月9日 (木) 14:25 (UTC)の投稿で各種産業技術セクションに﹁慶應義塾教員﹂として追加。ウェストンの記事には2010年12月19日 (日) 10:59 (UTC)の投稿で金子民雄﹁能海寛のたどった道﹂︵﹃ヒマラヤ学誌﹄第9号︶という文献に基づいて﹁慶應義塾の教師﹂である旨が加筆されているのですが、金子氏の見解は﹁明確な証拠を欠くが、私は能海が慶應で学んだウェストンはほぼ登山家のウェストンと言って間違いないと思う﹂︵231頁︶という推論に止まっています。2016年刊﹃慶應義塾150年史資料集2教職員・教育体制資料集成﹄に収録されている﹁外国人教師一覧﹂、1975年刊﹃資料 御雇外国人﹄にも名前が見あたりません。
●リチャード・ブリジェンス - 新橋停車場の設計者として知られている人物ですが、明治22年刊﹃工部省沿革報告﹄の鉄道関係﹁傭外国人各務担当表﹂や﹃資料 御雇外国人﹄には名前がなく、﹁雇﹂であったのか疑問です。今年出版された中川理編﹃近代日本の空間編成史﹄に大田省一﹁開港地建築家ブリジェンスの足跡﹂という論考が収録されているようなのですが、私は参照できていません。
●ジョン・ウィリアム・ハート - 神戸外国人居留地の都市設計者として知られる人物。居留地の自治機関であり、各国領事・兵庫県令・居留外国人によって互選された委員から構成される居留地会議に雇われていたとのことですが︵小代薫﹁明治初期の神戸﹁内外人雑居地﹂における公共施設の整備過程﹂271頁︶、これは日本政府ないし日本人による組織ではなさそうです。ハートの記事に挙がっている参考文献は参照できていませんが、﹃資料 御雇外国人﹄には名前がありません。--庚寅五月︵会話︶ 2017年10月22日 (日) 15:01 (UTC)
リチャード・ブリジェンス の件ですが大田省一﹁開港地建築家ブリジェンスの足跡﹂を閲覧してきました。お雇い外国人の言及はありませんでしたが、参考文献としてあった堀越三郎﹁明治初期の洋風建築﹂1929年、172ページには﹁新橋、横浜の両駅が御雇外国人に非ざる米国人の設計に成りしとは如何なる理由か不思議のことなり﹂とあり除外しても良いかと思います。--Tamrono157︵会話︶ 2017年10月27日 (金) 12:48 (UTC)
情報提供ありがとうございます。どのような立ち位置で設計を担当したのか具体的な記述があるのではと期待したのですが、依然明らかにされていないということですね。雇かどうかについて言及のある文献が堀越著以外に見あたらなければ、除去はやむを得ないと思います。--庚寅五月︵会話︶ 2017年10月29日 (日) 14:48 (UTC)
報告 テンプレートを貼付して二か月ほど経過しましたが、お雇い外国人であることを示す文献が提示されないため、ベルデル、ウェストン、ブリジェンスの3名を一覧から除去しました。ハートについては、参考文献を精査できていないため今のところ除去を見合わせます。--庚寅五月︵会話︶ 2018年1月10日 (水) 14:07 (UTC)