ノート:志水一夫 (作家)
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アマゾンでの自作自演[編集]
荒らし的な行為までしてこだわる方がいるので、この問題を整理しておいた方が良いかな、と思いました。私がネットで検索して確認したのは次の点です。
●志水氏はアマゾンでkadzuwoの他、"夜帆。@××マスター"という名義も使っている。
●"kadzuwo"と"夜帆。@××マスター"が同一人物であることは、"夜帆。@××マスター"のプロフィールで本人が認めている。[1]
●2ちゃんねるには、志水氏と"夜帆。@××マスター"が同一人物であることを問題視する(?)スレッドが立っている。[2]
以上です。本人が同一人物だと認めている以上、﹁自作自演﹂という表現は当てはまらないでしょう。
勿論、例えば﹁当初は同一人物ということを隠した上で夜帆名義で自分の本をベタ褒めしていたが、ネット上で騒がれてプロフィールを書き換えた﹂といった経緯があったのなら、それは確かに自作自演と言えるでしょう。ですが、仮にそういうことがあったのなら、第三者が検証できるような根拠を添えてその経緯を明示する責任は、自作自演説を書く側にあります︵百科事典である以上、Wikipedia:検証可能性が問われるのは当然のことです︶。客観性、中立性、検証可能性が満たされていれば、自作自演説を書くことに問題はないと思われます。現状でそれが﹁中傷﹂なのは、無根拠な書き殴りのレベルにとどまっているからです。--Sumaru 2006年7月2日 (日) 11:35 (UTC)
論点[編集]
編集合戦を防ぐために、複数の方によって繰り返し書きかえられたり削除されたりしているポイントについての管見をこちらに書いておきます。
●﹁ある﹂と﹁多い﹂
何らかの事柄が﹁ある﹂ことを示すのは比較的容易です。しかし、﹁多い﹂ことを示すのはそれほど容易ではありません。単なる悪意を持った中傷ではないのだということを示したければ、Wikipedia:検証可能性に耐えうる根拠を示すべきだと思います。
●文献は﹁有益﹂ではないのか
上記とも関連しますが、ノート:聖書/archiv1#参考文献で議論になったように、問題のある文献が混じっているのは事実だと思います。しかし、例えば、ジーン・ディクソンは、︵これの初版が﹁単なる宣伝のスタブ未満﹂としてよく削除されなかったものだとは思いますが、︶志水氏の文献以上に詳しく検証を行った日本語文献を私は知りません。もちろん、私もディクソンについてはそれほど詳しいわけではありませんが、もっと詳しい文献があるとか、志水氏の検証の問題点を指摘した文献が具体的に挙げられない限り、その有用性は否定されないだろうと考えます。
また、UFOで志水氏が加えた文献はいずれも有用なものですし、しかもその中には志水氏自身の﹃UFOの嘘﹄は含まれておりません︵履歴を確認したところ、これを加えたのは別人です︶。
こうした点を無視して﹁有用な文献﹂が含まれていることもある旨を消すのは︵そして無価値な文献ばかりであるかのように書くのは︶、単にそのような編集を行った方が志水氏に悪意を抱いていることをうかがわせるだけで、その方にとっても何の利益もないことだと考えます。--Sumaru 2006年10月21日 (土) 11:50 (UTC)
「社会科学に無知」について[編集]
志水氏の執筆の守備範囲には基本的に社会科学系は含まれていませんし、本人も社会科学に造詣が深いというような発言はしていないと思いますので、﹁社会科学に無知﹂であるということをわざわざ強調する必然性が無いように思います︵まあ、憲法制定史は歴史分野であり社会科学でもあるという論理は成り立つでしょうが︶。
パル判事云々は、志水氏自身が歴史畑出身で...という発言を何度かしていることから言っても、あっていいかとは思っていましたが、ただ﹁指摘もある﹂というのが誰の指摘なのか、出典の明記はあったほうがいいと思いましたので、要出典を貼りました。
なお、今後も今回のような個別具体的な誤りの例が加筆されることがあるのであれば、それは人物記事としてのバランスを損ねることに繋がりますので、︵パル判事云々もろとも︶一括で削り落とした方が良いのではないかとも思います。また、今回の例で言えば、法学者によって公刊された文献の中で志水氏の問題点が指摘されていなければ、Wikipedia:独自研究は載せないの﹁発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。﹂に抵触する可能性もあります。--Sumaru 2007年7月12日 (木) 03:59 (UTC)
︵追記︶気になって履歴を見返してみたところ、﹁指摘もある﹂という記述は私が書き直した結果生まれたものであることが確認できました︵今にして思えば不適切な書き換えでした︶。書き換える以前の記述がWikipedia:独自研究は載せないに抵触する可能性がありますし、公刊された文献で指摘されたものでないのなら、あえて具体例として挙げる必然性自体が希薄な例に思えます︵直前の﹁史料・資料の選定や扱い方を疑問視する者もいる﹂と被るため︶。1ヶ月くらい待っても出典が示されなければ、削除相当と思えます。--Sumaru 2007年7月12日 (木) 12:16 (UTC)
日本国憲法の制定過程云々は出典が分からないので何とも言えませんが、民事訴訟では弁論主義が妥当することを理解していないというくだりは、おそらく皆神龍太郎・志水一夫・加門正一﹃新・トンデモ超常現象56の真相﹄︵太田出版︶にある﹁東京地裁も認めた!外気功の効果!?﹂の項目のことを言っているのだと思います。
志水氏の主張の骨子は、外気功の効果に疑問を呈しているものであり、それ自身は首肯けるものです。ただ、民事訴訟では弁論主義が妥当し、原則として当事者が提出していない証拠に基づく事実認定はできない建前になっている以上、当事者が法廷に提出していない事実関係を主張したところで、外気効の効果に疑問を呈することはともかく、裁判批判としては成り立たないのです。この点が読んでいて違和感を感じた部分です。私が以前に判決文を読んだ記憶では証拠により認定した事実として外気功の効果に関する記述がありましたし︵判決文は判例時報か判例タイムズで読んだはずなので、時間があったら探してみます。︶、外気功の効果を否定するような証拠が法廷に出ていない可能性もあるのです︵訴訟記録を東京地裁で閲覧すればこの点は確認できますが、判決確定から5年を経過すると判決原本以外の訴訟記録を廃棄することになっているので、今となっては確認できない可能性が高いと思われます︶。
また、同書の﹁中国政府が認定証を出しており、日本の外務省がそれに基づいてビザを発給している以上、外気功をインチキだと言うわけにはいかない。﹂︵333頁︶から、﹁なんとか詐欺罪で告訴し、有罪にまで持っていくために、このような無理な判決文になったのではないかと思われる。﹂までにかけてのくだりは、民事訴訟と刑事訴訟の区別がついていないとの批判が当然に妥当しますし︵本件は損害賠償請求事件であり、詐欺かどうかは問題になっても、刑事事件ではないので詐欺罪の構成要件に該当するか否かは無関係︶、そもそも行政と司法の区別もついていません。
では、これを元にしてコメントアウトを元に戻すかというと、出版当時にネット上で同様の批判がされたという記憶はありますが、批判が書籍で展開されたかどうか不明なので、批判の存在について検証不可能ということで、私自身は元に戻すつもりはありません。--Black Star Limited 2007年10月9日 (火) 13:21 (UTC)
調べてみたところ、日本国憲法制定過程の話はこれにあるコメントのことですね。あえて言えば、明治憲法に定める改正手続に基づいて日本国憲法が制定されたとしても、憲法の改正に限界があるという考え方に建てば︵明治憲法下でも日本国憲法下でもこれが通説︶、現行憲法の制定は明治憲法の改正の限界を超えており無効とする考え方が成り立つのであり︵もっともこれは少数説であり、通説は、八月革命説も含め何らかの理由をつけて現憲法は有効とする︶、志水氏の主張はあんまりだと言えばあんまりな主張なのですが、こんなことにあまり突っ込んでもしょうがないかとも思うし、わざわざ書くほどのものでもないでしょう。--Black Star Limited 2007年10月9日 (火) 13:45 (UTC)
ご丁寧な指摘ありがとうございました。せっかくのご指摘ですし、本文に何とか残せないかなあとは思いましたが、難しそうなので断念しました。とりあえず、こうしてノートに細かに書いていただいたことで、今後の編集合戦の予防に繋がるのではないかと思います。
なお、上記の私の書き込みから1ヶ月どころか3ヶ月放置していたのは忘れていたからであって他意はありません。--Sumaru 2007年10月11日 (木) 13:58 (UTC)
問題ページへのリンクについて[編集]
﹃﹁と学会 山本弘問題連絡会﹂内の志水一夫関連のページ﹄ にリンクされていますが、同サイトには悪意に満ちた曲解が散見されます。
かつては、2ちゃんねるに出た逮捕歴のデマ (現在は当該スレは削除) のコピペまで出ていたかと思います。
そのようなページにリンクすることは、ウィキペディアの本義ではないと考えますがいかがでしょうか。皆様のご一考を願います。Kadzuwo 2008年3月20日 (木) 07:45 (UTC)
この件でKadzuwoさん御自身が編集合戦を惹き起こしていたのは2年近く前ですし、﹁かつては、~出ていたかと思います。﹂と仰るのであれば、なぜその時点で動こうとなさらなかったのかという点に疑問も感じますが、除去には賛成致します。
もともと私がこの記事を最初に編集した時点では、編集合戦の結果として本文中に当該リンクが埋め込まれた状態でした。ですので、とりあえず本文をある程度中立的にしつつ、編集合戦を防ぐための落とし所のつもりで、︵サイト名を明記してアンチであることを分かるようにして︶リンク自体は残すということを行いました。
ですが、その後﹁考慮すべきガイドライン﹂としてのwikipedia:外部リンクの選び方が整備され、当該リンクはその掲載すべきでない外部リンク第2項、第10項に抵触しているため、もはや残しておく理由はなくなったと考えます。
ただし、後腐れのない手続きという観点からは、余り拙速な除去は行うべきでなく、とりあえず最低でも1週間程度の合意形成期間を置くことが望ましいと考えます。--Sumaru 2008年3月20日 (木) 15:46 (UTC)
ご提案からほぼ2週間経っても異論がないため、該当の外部リンクは削除しました︵私は当議論の提案者ではありませんが、過去の編集合戦は御本人の削除が反発を招いた側面もあったように見受けられたため、差し出がましいようですが私のほうで対処いたしました︶。今後差し戻しをお考えになる方は、その前に、改めて議論の提起をお願い致します。--Sumaru 2008年4月2日 (水) 11:58 (UTC)
お写真について[編集]
4.5年前にイベントで志水氏とお話させていただいた際にお写真を撮影していたのですが、使用するのは如何なものでしょうか?撮影者は自分なので著作権の問題はないのですが、肖像権の問題はどうなんでしょうか(ちなみに撮影禁止というアナウンスはなかったのですが)歴史上の人物なら躊躇なくやるのですが、なにぶん最近お亡くなりになった方ですし、もはや許諾も叶わないので。--Carpkazu 2010年4月20日 (火) 14:51 (UTC)
藤岡氏からの批判について[編集]
唐沢俊一氏による盗作の件について、志水氏が藤岡真氏から批判を受けたという件については、批判の事実とリンク先を残して削除しました。志水氏の事跡の中で本筋とは言えない事件については﹁批判があった﹂で充分であり、そこへ批判の内容への批判を重ねることは記事としてのバランスを欠きます。志水氏への批判が志水氏没後だけのものであったか等は、リンク先等を読んでユーザ一人一人が判定すれば良いことです。なお、﹁藤岡氏の言い分への反証も載せなければ中立が保てない﹂のであれば、この件そのものを削除するか、﹁唐沢俊一盗作疑惑﹂という記事を立ち上げて︵おそらくノートが荒れるのでお勧めはしません︶、そこに情報を集約した方が良いと思うことも付け加えておきます。--貧乏神博士︵会話︶ 2012年6月16日 (土) 23:59 (UTC)